2020年初春。
散々だった2019年の業績により事業資金はすでに底を突いていた。
下半期に賭けた営業は尽く空振り、予てより進めていた案件は遅々として
進まず、歳を越えるための巻き取りはなんとかなったけれどもそれが精一杯。
俺が印刷業界から脱サラし独立開業したのは三年前。
今、最大にして最高の壁にぶち当たりそして僕は途方に暮れていた。
とはいえ極々ミクロな世界の話であり世の中もっと大変な苦労をされている事業主は腐るほどいるわけだが、その極々ミクロな世界の事業主にとっても金額の多寡は別として人の心が感じる苦しみは同じなのである。だからこそ視野をぼかして視点を変えて進んでいく必要がある。
年末年始に掻き集めた金で数年ぶりに子供らを連れて帰省し、俺は決意を新たに生き残りを賭けた戦いを開始した。まずやるべき事はすでに枯渇してしまっている資金にこれ以上手をつけずに食いつなぐ事だ。そのために俺はクローゼットにしまいこんだズタ袋を引っ張り出す。中にはヘルメット、安全靴、アームガードや膝当てなどが入っている、そう現場に入るための基本装備一式だ。もうこれを使う事はないと心に決めて走ってきたこの三年、しかし状況はそれを許してはくれず、己の未熟さと愚かさをもってまたこのズタ袋の口を開くことになった。
現場へ帰る、またあの汗と埃にまみれた戦場へ。
別に働くことが嫌いなわけじゃない、
むしろ現場独特の雰囲気を俺は愛してもいる。
しかし、そこに留まっていては先へ進むことはできない。
安いプライドと意地で新しく作り出す仕事で食っていく事を誓い、
俺は仕事道具をクローゼットに仕舞い込んだ。
最初はある程度順調に進んでいけた、売り上げは徐々に伸びていき利益も出始めた。顧客も増え始め勢いは増していくかと思われた、しかし程なく落とし穴はその口を開けて待ち構えていた。月々で回っていたルーティン案件が突然のカットオフ。メインで回していた看板製作設置以外の工事案件から湧き出る様々なトラブル。二馬力で回す家計の状態変化。まだまだ自走していけない幼い我が子達。
見る見る間に資金は溶けていった。
留めは中国人の施主との工事トラブルによる赤字を引き受けた事によるダメージだった。所詮は工事の素人である自分が賄いきれる現場ではなかった。どうにか新しい方向へと舵を切らねばならない。そのためにまずは一から汗を流してやり直さねばならない。自分の甘さと弱さを叩き直すためにも。
そして俺は長らく眠っていた派遣会社のアカウントにアクセスした。ここでは仮に「M」としておく。業界の人間ならすぐにピンと来るだろう。ここは数ある派遣会社の中でも単価が比較的高く、また管理状況がいい意味にも悪い意味にもゆるい。本人次第できっちり働けもするし副業としても十分利用できるポテンシャルがある。業務管理システムもシンプルな自前のものを用意しており、登録した当初は派遣会社もここまで来たかと感心したものだった。
とはいえUIはダサい。
サラリーマンをしながら土日に運動不足解消と小遣い稼ぎがてら現場に入っていたのはもう5年ほども前になる。独立直後三ヶ月ほどはちょくちょく行っていたが、それ以降は現場を離れていた。自分の案件回すために現場自体に身を置いてはいたが、これからは使う側ではなく使われる側へと再び回る。二度とは戻るまいと誓った傭兵稼業の再開だ、抵抗が無いといえば嘘になるが背に腹は代えられぬ、家族の食い扶持が自分の肩に掛かっているのだ。
日付を入力し業種を選択する。自分はC契約フリーランス枠での雇用となるのでやれる案件はそう多くはないがすぐに仕事はみつかった。俺はいま抱えている手持ちの案件を調整してさっそくエントリーした。そしてカレンダーに浮かぶ星、エントリー確認の証だ。俺はその黒い星を見つめながら、明日にやってくる懐かしき故郷、派遣の戦場へと思いを馳せた。