ステレオタイプ-1 ドライフラワー

いつからだろう。

マスクをつけていることが何となく落ち着くようになったのは。

今日も一日、いつものように仕事をこなして家路につく。
冷蔵庫にはろくに何も入っていない。確かビールも飲みつくしたな。

暮れなずむ街を窓に映しながら電車は走る。紫とも青とも赤ともつかない空色の下、他人の家の窓に明かりが灯りだしている。なぜだか寂しいんだか懐かしいだかよく分からない気持ちがこみ上げてきて、俺はぼんやりとあいつの事を思い出していた。

あいつと初めて出会ったのは得意先での打ち合わせの時だった。皆がマスクをし始めるよりも前。俺は材料屋として得意先の企画提案にアドバイスする立場でそのミーティングに参加していた。販路開拓のための試験的な企画だった。PTメンバーも自分含めて三人しかおらず、正直売り上げになるかならないか分からないような話だったが、上司から顔つなぎの意味もあるから行って来いとケツを叩かれた。
その企画の担当者があいつだった。

気が強そうで仕事に燃えている、要るんだか要らないんだかよく分からないような企画に真剣に取り組んでなんとか爪痕残してやるという気概が伝わってきた。俺は正直言ってどうやってこの企画から手を引こうかとばかり考えていたが、そのうちにあいつのペースに巻き込まれて面白くなってきて自分からあれこれ提案するようになっていった。

最初のミーティングから四か月後に最初の受注を取る事が出来た。本来ならば三か月目には成果を出さなければならなかったのだが、予定をオーバーしてしまい企画自体が流れてしまうところをあいつが粘り強く上長を説得し結果にこぎつけた。最後の一か月は二人で顔つき合わせて試作品の選定やらプレゼン用の資料作成やら、毎日のようにメールやSMSで言葉を投げ合って繋がっていた。楽しかった、契約が取れたときは思わず声が出そうになるくらい嬉しかった。

そして二人で細やかな祝勝会を開いた。そこで俺は気がついた、仕事場で見せていたあいつの顔の下に、柔らかで物静かな優しい仕草が隠れていたことに。それからいくつか案件をこなし、俺たちの仕事は順調に進んでいくように思われた。しかしある時、あいつからメールが飛んできて急に先方に呼び出された、突然新しい担当に引継ぎをするという。俺は一瞬思考停止してしまった。仕事は順調に進んでいたし特に何か問題があった分けではない。なのになぜ急に担当が変わってしまうのか理解が追い付かなかった。なによりこの企画を育ててきたのはあいつだったし、誰より努力してきた姿を俺はそばで見てきたから。

引継ぎの話を進めている間、あいつはいつも通りの顔をしていつものようにそつなく仕事を進めていく。悔しいのは俺ばかりなのかと腹の底が冷えるような寂しさを覚えた。それから数日してあいつからSMSがきた。転職するのだという。

俺はたまらなくなってあいつに会いに行った。離れたくなくて放したくなくて。
あいつの住んでいる三軒茶屋のカフェで待ち合わせた。いつもとは違うゆったりした服はより一層いつか見たあの顔を表にしていた。案件が別の担当に変わったのは成果が出始めたので上司が自分の傘下に取り付けたからだという。転職については前々から考えていたがこの一件で気持ちに整理がついたと。一通りあいつの話を聞き終えて、俺は自分の気持ちを伝えた。あいつは少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに目を細めて淡く微笑んだ。

そこから俺の三軒茶屋通いが始まった。あいつはさっさと仕事を辞めて、ほどなく次の職場がきまり忙しく動き始めた。お互い新しい日々を過ごしながら、今までとは違う距離で、これまで以上の温かさを感じながら居心地を育んだ。

茶沢通りでカレー食って、夜には駅前の路地を探検してみたり古びた銭湯にもいった。お互い忙しい中で寝る間を惜しんで一緒に居る事を楽しんだり嬉しがったりして、今となっては幻みたいな日々だ。

世田谷線に乗り慣れる頃に俺は一緒に暮らそうかどうしようかと考え始めた。しかしあいつの仕事はどんどん忙しくなっていき、責任ある立場を任せられるようになっていった。三軒茶屋で一人で待つこともしばしば、俺はそんな中で退屈と向き合いながら独り乾いていった。

そんな状況は一年以上変わる事もなく、一緒に居て喧嘩する事も増えていった。そこにはいつか現場で見ていたあいつの顔があった。堪らなく寂しかった。
言葉はやがて鋭い棘で線を引くようになる。心に少し持ちきれないくらいの擦り傷がモザイクみたいに広がって、そんなことが伝えたくて、そんな顔が見たくてここにいるはずじゃないのに。

世田谷線に乗る事がなくなっていった。週に三日と空ける事無く乗り込んでいた妙に古臭い車両をふと思い出しながら、それでも足はだんだんと遠のいていた。行ったところでそこにあいつはいないから、下手くそな鼻歌を歌いながら料理したり、地震が来た時に思っている以上に機敏に動いてそばに寄り添ったり、そんなあいつをあの部屋で待つことが何となく乾いていく原因なんだと俺は気がついていた。

冬から春に季節が移り変わる頃、自分が思っているのとは全く違う形で世間が大きく姿を変えていった。誰もかれもがマスクをして家から外に出る事さえもできないような。仕事も会社も何もかもが慌てていた、海の外からも物が入ってこない。誰にも責任の取りようがない事の連続だった。

そんな中で俺はあいつの事を忘れていた。正確には忘れたことにしていたんだろう。しょうがない、こんな時なんだからしょうがないね。そうSMSで伝えながら遠くに走り去っていく世田谷線を見送った。

自分の部屋で独りで過ごして、どこに行くこともない暮らしが始まった。いや、そこに戻っただけ。毎日目に見えない何かに追われているような生活。マスクも慣れてきてまた冬がやってくる頃だったろうか、あいつから連絡があった。
「結婚します」と。

俺はなんだかほっとした。そして同時にゾッとした。突然、頭にコンクリートの塊が落ちてきたみたいな。「おめでとうございます、どうかお幸せに」と返信した。目を細めて淡い微笑を浮かべているあいつを思い出しながら。

冷蔵庫にあるビールを全部飲み干して、スマホを開いてFBを立ち上げた。ずっと放置で登録してるフレンドも20人くらいしかいない。その20人の中にあいつもいる。三軒茶屋に通い始めた頃は毎日チェックしてが、だいたいそれと同じ話や写真をあいつと一緒に見る事になるからいつからか開くこともなくなっていた。

あいつの日記は1年くらい前で止まっていた。それは二人が別れた頃だ。あの頃を指で追っていく、俺がそこに居た。なんだよ、幸せそうな顔してやがる。やがて写真は仕事仲間や一人でいる時の物が増えていき、最後はドライフラワーの写真に一言「幸せになってやる」と添えてあった。

きっとそうだ、そうだよな。
もうあいつは三軒茶屋にはいないんだろう。
ありもしない乾いた花から、優しくて柔らかな香りをそっと風に乗せながらあいつは何処かへいってしまった。