1976年。
昭和51年4月14日。
俺は寝屋川で生まれた。
あの頃の寝屋川といえばドブ川の匂いが立ち込める古い町で、
その町の神社の参道沿いにあるゴキブリ長屋と親達が自嘲していたボロい長屋に暮らしていた。
両親は共に伊勢志摩出身で、親父は大工でおかんは美容師。
死んだ爺さんは西陣織の彫り師で曲がった指で戦争に行けなかった。
曾爺さんは日本画家だったらしいが詳しくは知らない。
俺が四歳になる頃に守口に引っ越した。両親が家を買ったのだ。
70年代後半のオイルショックを乗り越えて世間はバブルに向かい猛然と進み始めていた。中卒の職人が二人力を合わせれば20代で家が買えた時代だ。
守口は松下と三洋のお膝元として栄え、俺たちもその恩恵に預かっていた。
ガキの頃は忙しい両親が日曜日に疲れ果て飯を作る気力もなくなりいつも焼肉に連れて行ってくれた。守口門真は在日韓国人も多く贔屓にしていたオモニの店で美味い焼肉をたらふく食って育った。その店も今ではもうない。
高校受験に際して、大工だった親父の心ひそかな希望であった建築士になるために、俺は大阪工業大学高等学校建築学科を選び無事合格した。癖の強い同級生たちと様々な新しい文化の衝突を繰り返しながら、地元に帰っては近所の土足禁止のジーパン屋に入り浸って、HIPHOP、ジーンズ、最新の米東海岸のアパレルと映画、様々な音楽にハマる日々を過ごした。
そして高校二年になった俺は気がついた。自分が三年生に進級したら国語の授業がなくなる事を、つまり今手にしている国語の教科書が俺の人生最後の国語の教科書であると。俺は国語の教科書が好きだった。授業では取りあげられない人知れず忘れ去られる運命を背負った様々な物語や詩歌、それらをすべて読み尽くす事が俺の密かな楽しみだった。
そんな中に運命の時が待ち構えていた。夏目漱石のこころ。中学の時に吾輩は猫であるに挫折して以来文学作品が苦手になっていたが、これも最後の出会いかと想い読み始めた。読み始めたのは国語の授業中、その次の社会の授業中も、その次の数学の授業中も構わず夢中になって読み続けた。あの時、俺は確かに自分の手で襖を開け、自分の目で血しぶきが走る壁と天井を見た。その時溢れた感情は幾重にも折り重なる「なぜだ!」という言葉になった。
俺は目が覚めた。自分が今求めなければならないものはこれだとはっきり分かった。生きてきてあんなに興奮したことはなかった。今でも鮮明にその衝撃を思い出すことができる。その後、俺はあらゆる文学作品を読み漁った。もう一度、もう一度あの衝撃を味わいたい、もう一度あの快楽を得たい。その一心で本を読み続けた。まさに文学に勃起していた。そうしているうちに、自分でも書いてみたいと思うようになった。
建築学科の担任に自分は建築士にはならず文学を学びたいと相談した。その時、止められるだろうし何を言われるのだろうかと内心醒めていたが、担任は意外にも俺の背中を押してくれた。安藤忠雄は建築士ではあるが奴の本質はそのプレゼンテーション能力にある。自分のコンセプトを人に伝える力がずば抜けている。そういう意味においてお前がやって来た建築の学びも無駄にはならないだろう。書くという事はより自由だからと。恩師も今は鬼籍に入り、母校は名を変え建築学科も今はもうない。
しかし適当な勉強しかしていない工業科の学生が大学なんぞ受かるはずもなく、
当然の如く浪人となった。同じく浪人になった地元の公立高校組の同級生たちと久しぶりに合流しつつ、緊張感のかけらもないのんびりしたとした浪人暮らしを始めた。毎日図書館に行って友人たちが参考書を積み上げるのと同じように小説や美術書や写真集を読み漁った。友人たちはお前大丈夫かと心配したがまあなるようになるだろうと俺は呑気なものだった。
そんなある日、駅前のツタヤで中学の同級生女子にばったりと再会した。彼女は大学に行っているという、面白い大学だから一度遊びに来たらいい、どんな大学か教えるから一度家に遊びに来いと。それほど仲が良かったわけではないが一つ話を聞いてみようと思い手土産もって彼女の家に遊びに行った。彼女はピアノをやっており大学でもピアノを専攻しているという。大学でピアノ?俺に音楽でもやれというのだろうかと思ったが、話を聞いてみると大阪の富田林に総合芸術大学があるという。そこには建築もあるし面白い人がたくさんいるということを教えてくれた。俺はそれまで大阪芸大の存在を知らなかったが、そんなところがあるなら一度見てみたいと俄然興味が湧いた。その頃すでに俺の中にあった一つの考え、文学を書くのが人間であるならば読むのも人間であり感動するのも人間だ。俺は人間の事を知らなければならない。そのために、大阪芸大という場所に何かがあるかもしれない。確信に似た何かが俺の胸に想起していた。