ハッピーハードコア③

四条畷は坂が多い。

担任に命じられたミッションをこなすべくやってきた不登校の同窓が住んでいるのはそんな場所だった。

俺たちは不慣れな土地を彷徨っていたが、
学級委員長で剣道部の尾崎はネットもない時代に少し迷いつつもそつなく目当ての住所を突き止めた。

チャイムを押し、初めて森村の母親と対峙した。
短髪で勝気そうな、自分が想像している母親像とは一味違った。
今の自分から見ればああそういう事かと想うような。

多くを聞く事も聞かれる事もなく森村の部屋に通された。
それも何とも違和感があったがおそらく担任から根回しがあったんだろう。
茶の一つも出てこなかったが俺達には気にならなかった。
なにせ俺たちはあまりに子供だったから。
不登校の高校生を学校に立ち還らせるなんて事は考えてない、
ただ、あいつに会いに来ただけ、少なくとも俺は。

昭和の建売丸出しの、ボロいとまでは言わないが流行りの安普請。
確か森村の家は両親ともに教師だとかなんだとか。
稼ぎは悪くなかっただろう。
俺は大工の息子で、ガキの頃には親父の現場で遊んで過ごした。
家が建っていく姿を見て育った俺は今でもやはりパッと見て建物の「姿」が観える。

板敷きの上に薄いカーペットを糊付けした床。
そこに森村は座って待っていた。

「おう、どした」

奴は多くは聴かない。
それが否応なしに緊張感を高めた。

「森さん久しぶりやな、会いにきたで」

さすが委員長口火を切った。
ちなみに委員長も森村も剣道をやっている。
道中聞いたが森村は大会で名が上がるくらいの腕はあるらしい。
委員長も大会で遣りあうくらいには腕のある剣士だった。
でまあその繋がりがあるからこのネゴに選ばれたのだなと理解した。

そらね、俺は剣士同士の意味不明な緊張感を感じて黙っていたわけで。
これが俺の得意能力でもあるアンテナなんだが、これにいつも助けられた。
森村は俺を睨んだ。

「お前も来たんか、どうした」
「どうしたというか、まあ来たよ」

言いようは無い。
何もない。

俺は手に持っていたビニール袋を差し出していった。

「まあ、呑むか」

部屋の真ん中にどっかと座る森村と俺たちは正三角形になった。
森村は決してガタイのいい男ではない。
痩せぎすのカマキリのような顔をした奴だ。
しかし故に何を考えているか分からない昆虫のような男だ。
俺はそこが好きだった。

「森さん、学校にこんか」

委員長は正眼に構えていきなりの一閃である。
俺は正直度肝抜かれた。
え?前置き無し?いきなりいくの?

後はよく覚えてない。
一足一刀の間合いで語り合う二人。
剣士同士の問答が始まる。
なぜ学校に行かねばならないのか、
何の意味があるのか、なんだとかかんだとか。
俺はそれを傍でただ見ていた。
つまり立ち合い人だ。
議論が白熱し森村の拳が強く握られたのを見た俺はそこで言葉を発した。

「まあ分かった!とりあえず今日はこれ買ってきたからいっとこ!」

二人ともそこではたと気がついた。
なに、森村の拳だけが強いわけではない、
委員長が正座しながら薄く腰を挙げているのが見えたからだ。

二人よりも体が大きく二人と話ができる俺が体躯に声を響かせれば、
一時は稼げる、それだけの話。

そして俺たちはまずは一献を傾けながら建築について話し始めた。
そう、俺たちはまだ毛も生え揃わない建築の学び舎に集まった何者か。
しかしここで俺は衝撃を受ける。
委員長はすでに己の中に建築の何たるかを持っていて、
森村はすでに建築ではなく美術を志していた。
二人は建築の中にある美術(アート)とは何かを議論し、
俺はそれを傾聴しながら、何を言っているんだこいつらはと思いながらも、
二人の言葉の端々に自分の理解と感性と知識が及ぶ領域を見て発見に喜んだ。

時に頭に血が上った森村が酒瓶を握るのを制しながら、
それに一歩も引くことのない委員長の胆力に呆れながら、
こんな話だけを覚えている。

階段の話である。

森村は言う、

「俺は階段の蹴上げが1mあろうともそれが階段であれば、
 それはアートであり建築として成立する」

委員長曰く、

「階段は人が使ってそれが安全に成立するから階段であってそれは階段ではな  
 いしアートかもしれんが建築ではない。」

と。

俺はどっちの言い分も分かるしどっちにも賛同できるがそれぞれがたどり着きたい場所が違うのにそんなもん言い合ってどうするんだと呆れていた。

そんなこんなの夜を過ごして、次の朝俺たちは森村の実家を後にした。

俺は帰りに森村が描いた油絵を一枚もらった。
今にしてみればなんとも稚拙で、マグリットの偽物みたいなものだが、
「継続」と名付けられたそれは今も俺の実家に飾られている。

その後、数日して森村は学校に出てくるようになった。

ちなみに森村はその後イギリスのなんとかいう街に留学して食えない作家として今も作品を作り続けている。

なぜこんな話を長々としたかというと。
富田林にあるという大阪芸術大学の学園祭に行くにあたり、
当時優秀だった委員長はあのやさぐれた高校の建築学科から大学にエスカレーターで上がっていった秀才で、今や世界で最初の株式会社とか言われている建築事務所に勤めている。そして俺は河内松原に住んでいる委員長に声を声かけてナビを頼んだ。まあ、貸しはあるから水先案内人を頼んだのだ。

当時未踏だった大阪の南へ、人は、大事だよ。