尾崎の試合の戦績や最近のゲーメストの話をしながらまずは京橋、
そして天王寺、阿部野橋から近鉄へ。
阿部野橋はもう一人の不登校児であるハセコの地元である故にうっすく馴染みもあった。しかし、そこから先は未踏の地。
尾崎も松原以降は馴染みが無いらしく、それでもまあ大阪の南への行きずりには十分な輩。
車窓の景色はどんどんと色褪せていき、
それが田舎へと近づいている事を教えてくれる。
古墳が多く産出されるエリアに進んでいき、
土師ノ里、古市、そして富田林。
たどり着いたそこは空が広いド田舎だった。
大学ってこんなところにあんの?
まずはそこが胸に去来した。
そして人流に乗ってシャトルバスに。
田舎の風景見ながら揺られて10分ほどで降ろされたバス停。
そこに随分な坂があり、それを登り切った瞬間に俺は新しい世界を見る。
坂の上には開けた駐車場があり、
そこには多くの屋台が展開していた。
屋外、外なのに、
酒臭い!!
驚愕した、外なのに酒臭いとかどういうことだ!?
瞬間ここが尋常ではない事を俺たちは察した。
さすがセンスある尾崎は言った。
「これあかんちゃう?」
だよな、そう思う。俺もそう思ったがしかし、高揚した。
そう、これこれ、これこそが俺が求めていたもの。
あの中学同級の上品なお嬢様がお前にはお似合いといった意味が分かった。
つうかあの時にお前にはお似合いと言ったあの娘のセンスと俺の評価とは・・・。
この後、いろいろと回った。
廊下を使ったボーリング、映画上映、バー、スナック、射的、ロカビリーのダンスに燻製チキン。何もかもが祭りで規格外だった。
学園祭ではなく市場だったし路地裏だった。
そんな片隅で地味な四人組がアカペラで歌っていた。
時は1995年。まだアカペラブームは来ていない。
しかし、周りは酒池肉林で騒ぎまくる中で、
その四人はただ静かに、しっかりとした声で歌っていた。
まっくら森を。
俺はここに挑もうと決めた。
もうそれしか道は無いとわかった。
それが1995年11月の話。
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グランカスタマ⑤
正月の凍てついた夜の歌舞伎町。
俺は歌舞伎町の正面から左に回り込んでジョグを止める場所を探し回った。
トー横を原付押して突っ切り裏手へ、
交番でグランカスタマの場所を聞いた。
「グランカスタマってどこにありますか?」
「え?そこだよ?」
交番のお回りは半ばあきれ顔で応えた。
俺は気恥ずかしくなりつつ原付を押してグランカスタマの前で立ち止まった。
とにかくまずはここでしばらく耐えるしかない。
いつまで、どこまで。
それさえ分からないがとにかく今あるわずかな銭で凍死しない事だけを目指して。
背中には最低限の耐寒装備があるが、
しかし俺は気がついた、だからと言って容易く野宿できる場所は新宿には無い。
歌舞伎町にたどり着く前に街をうろつき下見したが、
めぼしい場所にはすでに先住民がいる。
そらそうだ、居座れる場所があるならそこにはすでに誰かがいる。
俺は野宿は諦めてとりあえずどこかに宿を取ることを選んだ。
そしてやはりそこは歌舞伎町となった分けだ。
とりあえず人目につかない街陰にジョグを停め、
俺は歌舞伎町に降り立った。
懐かしい、青春の最後を過ごした街。
トー横キッズが荒らしまわり、
東京の中でも随一の異様を称える街となった歌舞伎町。
今も昔も背中に油断ができないのは変わりなく、
人は若返り目に見える様は随分変わった。
とにかく、まずは宿を取る。
オリバーツリーのLife Goes Onが鳴りび響くホストビルを横目にグランカスタマに入る。入口横にはローソンがあり、これはおそらく持ち込みが可なのでライフラインとなるのだろう。謎の安っぽい籐でできたブランコベンチにこれまた安っぽい白いコートを着たオルチョンな若い女子がケタケタ笑いながら座ってる。受付に並ぶ客は様々で、金があるんだか無いんだかレストなのかステイなのか分からない、生気があるのか無いのか分からないそんな姿。そこに紛れてチェックインするも、次々やってくるレシート持ったステイ客が優先的に捌かれていきまた部屋に戻っていき新規客は後回しになる。この一事を持ってもしてもステイ客が多い事を教えてくれる。
何人か待たされてやっと俺の番が来た。
「いらっしゃいませ、こちら初めてのご利用でしょうか?」
口馴れたスクリプトが出迎える。
「はい、初めてです」
「では身分証明証を拝見できますか?会員登録が必要になります」
見た目は貧しく清潔な若者。故に丁寧なスクリプトが引き立つ。
客として来る派手で怪しく、この世の春を味わう同年代に紛れる陰キャ。
時に年老いた怪しく、出所不明な連中を佃煮にするほど相手してきたのだろう。
ハローワークの窓口派遣社員と同じような目をしている。
「お時間どうしますか?」
「ああ、12時間、朝まで」
「ナイトパックですね、それではオプションいかがしますか?」
「なにがあるの?」
「タオルとブランケットは無料です」
「じゃあそれで」
こっちは初めてだから何も分からない。だから言われるままに。
いうてもここは鍵付きネカフェ、そんなもんだろ。
そう思っていたがどうも勝手が違う。
俺はオプションを受け取って入口近くのエレベーターに向かった。
そこから見える壁に椿かダリアか何かが描いてある。
ベーター横のドリンクの自販機の前に女が一人立っている。
キリっとの
キリっとしたボブに大きい花柄ニットの女。
女といっても俺からしてみれば親子ほど年も違うだろうが、
色気が噴出している。こんなのが一人でここに来るのか。
手には大荷物を持っている、恐らくステイ客だ。
余計な視線は野暮というもの。
俺は歳の割にはたっぷりとした肉置きから顔をグイッと背け、
エレベーターを待ちわびる顔を作った。
そしてようやく扉が開きエレベーターに乗り込んだ。
閉まりかける扉を押し分けて、さっきの花柄ボブが乗り込んできた。
手に持ったドリンクが少しこぼれて、
「あ、ごめんなさい」
と歌舞伎町に似つかわしくない声で遠慮をした。
俺は無言で扉を制して花柄ボブを迎え入れ、
「どこまで?」と聞こうとしたが彼女はサッと3階のボタンを押した。
油圧式かと思うほどにレスポンスの悪いエレベータの中で、
匂い立つ牡丹柄のニットに目が釘付けになりならが、
無言のひと時に息が詰まる、いま大きく息をしたらきっと。
彼女は3階で降りて、俺は4階で降りた。
グランカスタマの魔性が俺を出迎えた。
そんな気がした。
ハッピーハードコア④
俺は朝からトキメイていた。
何かわからない、言いようもない高揚。
直感で何かが始まるようなそんな予感。
それを抱えて、尾崎との待ち合わせに久しぶりに母校を訪ねた。
あいつは俺たちが通っていた高校の隣にある大学に通い、
相変わらず剣道部に入って汗を流している。
電話して大阪芸大へのナビを頼むと奴は二つ返事で快諾した。
こういうところは相変わらずのレスポンス。
そして高校卒業以来久しぶりに母校近くにやって来た。
バイトしてたエロい熟女店長がやってた喫茶店や、
糞美味い米屋のから揚げや、
千林に似つかわしくないゴージャスな銭湯や、
今も昔も変わらない淀川、河川敷を眺めてから待ち合わせに向かう。
そういえばこんな話があった。
サッカー部の顧問は俺たちの保健体育の担当だったのだが、
爺さんだがやたらガタイがよく、しかも微妙にプルプルしているいろいろ限界な感じの教員だった。
授業では、「梅毒に気をつけろ、やばいぞ」「若い頃アメリカに行ってマリファナ吸った、道端に棒状に乾燥させて売ってた」「お前ら避妊しろ、性病にも気をつけろ」といった感じで実学に基づいた警句を発していた。まさに教導とはこのことを言うのだろう。
そんなサッカー部の顧問は柔道の達人で、アメリカに行ったのは柔道の試合で人を殺してほとぼり冷めるまで逃げるためだったとか言われていた。その逃げた先で路上で売られている棒状の乾燥マリファナを買った話を生徒に聞かせる尊い教導であらせられるわけだが、そんなサッカー部顧問はいろいろな伝説を残している。
例えば、淀川河川敷にあった我が母校はそれこそ河川敷がサッカー部やラグビー、野球部のグラウンドになっており、そこに砂ぼこりが舞い上がらないように川の水を消防ホースで組み上げてばらまく。そのホースが傷んであちこちから水が漏れてピューピュー噴水になるわけだ。サッカー部奴らがまことしやかに語る柔道家のサッカー部顧問の伝説。真夏の暑い日、サッカー部の奴らは走り疲れ乾ききって河川敷に揺らめく陽炎を眺めながら早く次の休憩が来ないかと待ちわびていた。汗と陽炎の向こうに部員たちを見る事もなく後ろ手でホースを眺めるサッカー部顧問の爺さん。そしておもむろに爺さんはホースをガッと掴み噴水にむしゃぶりつき淀川の水をグビグビと飲みだした。ひとしきり啜って満足したのか口を拭ってニヤリと笑い「こんな美味いのになんで飲まんのか」と言ったそうな。
この手の与太話が山ほどあるがまあそんな事を淀川の揺蕩う流れを見ながら想い出したあとに俺は待ち合わせ場所の大学の正門前に足を向けた。
そして、そこから一時間以上待たされることとなる。
当時はまだ携帯電話もない時代。事前の摺合せがほぼすべて。
ポケベルとかも通じずただ待つしかない。
今日は試合があってそれが終わったら付き合えるからと聞いていた。
にしても試合がズレても一時間はなくないか?いうてる間に一時間半が経った。
これはもう帰って良いやろ、大阪芸大には俺だけでいく?つうかもういかんでもいいか!?とにかく何やっとんねんあいつは!?
そして奴はきた。
案の定の困り顔、そしていう事には。
「ほんますまん!試合が長引いて逃げられんかった!一回生は厳しいねん」
ほうほう、左様で、大学生様は大変でございますねぇ。
俺はとりあえず何の連絡もなく路傍の立て札となった我が身の不遇に苛立ち、
その怒りをぶつけたがそれに対する奴の返しは意外な物だった。
「そんな怒んなよ、こんな時にハセコはこう返して来たぞ」
ハセコとは俺たちの同級生で無類の変人だ。
まあとりあえずハセコがなんて返して来たか聞いてみた。
「あいつは俺が二時間待たせた時があってな、二時間やで、
俺もさすがに真っ青になって急いで駆けつけたんやけどな、
そん時にハセコはなんて言ったと思う?」
「はぁ、なんていったんや」
「あいつ缶コーヒー用意してて『遅かったな、大丈夫か?よく間に合ったな』と
暖かく迎えてくれたんや。ほんまキツかったわ」
「ほんで、それが今日の遅刻に何か関係あるんか?」
「なんにもない。ごめんなさい」
俺たちはそれで和解してボチボチと京阪電車千林駅に向かって歩きだした。
すでに陽は傾き始めている。
グランカスタマ④
中井から南下して中野坂上辺りで東へ。
そこから新宿駅の巨大な構造を回りこんで新宿東口方面へ。
そこは真夜中の新宿歌舞伎町。
正月の歌舞伎町。
この街に帰ってきたのはもう十数年ぶり。
かつて俺は某風俗ポータルサイトの営業マンをしていた。
歌舞伎町には店を持っていなかったが同僚の店に呼ばれてあれこれしていた。
俺の担当は、恵比寿、鶯谷、池袋、大宮、関内、西川口、錦糸町、小岩、新小岩。
あの頃、仕事に就いたばかりの俺にあれこれ仕込んでくれた上司が言っていた。
石原都知事の浄化作戦で歌舞伎町もつまらなくなった。
歌舞伎町には夜になればまっすぐ歩けなくなるくらい人が集まっていた。
しかし浄化作戦が行われ街から人が消えてしまった。
そしてブラジル人が消えて中国人が増えた。
つまらねぇ、と。
今の歌舞伎町は自分にとって、
リーマンショックの時にあの業界から足を洗い、
今となっては「うな鐵」くらいしか知りようもない古巣だ。
ゴールデン街で朝方寝転んでいたら角刈りのおかまの爺さんだか婆さんだかに起こされて一緒に茶を飲んだり、元旦に60歳オーバーのバーのママと一緒に花園神社の初詣に行ったが人が多すぎて断念したり、謎の老人集団にぼったくられたり、そんなことは10年以上も遠い昔となってしまった。
とりあえず歌舞伎町に降り立ち直面したのはジョグの置場。
クッソ高い家賃の歌舞伎町には原付すら路駐する場所も甘くはない。
油断すればクッソ金がかかる。
そこはもう嗅覚に頼るしかない。
帰る家を無くしたなぜ俺がそんな金のかかる歌舞伎町になぜ来たかと言えば、
1月4日から仕事が始まり現場は都庁前。
なのでもう新宿にとりあえず仮の宿を見つけるしかない。
そういう理由からだった。
アテはあった。
前々から気になっていたネットカフェだ。
何かの時に広告を見ていた。
そこは鍵付きの個室でシャワーだけではなく大浴場があり、
ネットもあり漫画もあり、何よりカレーが食べ放題なのだという。
なんだその楽園は。
全てを失い、しかしとりあえず食い扶持は確保している俺が宿を取る。
そのために必要なのは安いホテルではない。
諸々のコストを考えたときに快活クラブも選択肢に入るのだろうが、
その時点では俺にはそこしかなかった。
「グランカスタマ」
俺の知らない歌舞伎町のど真ん中。
行き場を失ったトー横キッズが暴れまわるという噂の歌舞伎町。
今となっては年老いた俺が流れ着いて身を寄せる場所は、
そこしかなかったわけだ。
2023年1月2日深夜。
俺はホームレスになり歌舞伎町グランカスタマに潜り込んだ。
グランカスタマ③
中井は落合南長崎の隣。
複数の坂で繋がった複雑怪奇な下町だ。
新宿と言いながらまさに下町。しかも練馬にも似た荒くれた町だ。
故にそこには昔ながらの人情が息づいている。
正義や清廉が幅を利かせていない、人間が活きる街だ。
そんな中井にジョグで乗り込み、
俺は奴らの家にたどり着いた。
チャイムをピンポーンと押す。
「ほいー、いらしゃーい」
「ういうい、あけおめ」
なんとも雑に、もうこのコロナ禍で一年以上会っていなかったが、
いつものように。
SNSをやるようなタイプではないユリはそんな感じで俺を迎えてくれた。
これは理屈ではなくてお互い子育ての一番重い時期を支え合いやって来た戦友だからこその連帯感。俺はパパ、あいつはママ、だから何だっていうんだ。
俺は子らの送り迎えを95%こなし、ユリは四人の子を育てながら奮闘していた。お互い立ち位置は違いながらもそれぞれの苦労を労いあった。
生来俺はなぜか、俺自身はそうではないのにヤンキーに好かれる傾向があり、
ユリは根性焼きの跡があるレベルのヤンキーだったのも一因だろう。
保育園から見てきた子供らももう中学生とか五年生だとか高校生だとか職人だとか。それなりに今や俺の顔も真っすぐに見ないけど、でも同じテーブルに座ってどこかに行く事もない。話しかければなんだか恥ずかしそうに、後日LINEの登録してくるくらいには俺の居場所をくれる、赤の他人なのに親戚、魂の親戚。
ユリの彼氏も起きて来て正月に混ぜてもらう。行き場を失った俺が漂いながら、ようやく正月らしい席に座る事が出来た。
「ほんでな、実は俺、離婚するから家を追い出されたんや」
いきなりの火の玉ストレート。
ユリは頭抱えて、
「ええ!なんでよ、まあ、そうなるよね」
一瞬で逡巡しつつも腑に落ちた模様。
流石は戦友である。
彼氏は相変わらず顔色変えずに話を聞いている。
ここに及んで気がついたが、この彼氏はこういう人、良い悪いは別に。
ああだこうだ経緯を聞かせるもユリの見解は。
「そうだね、いろいろあるけどあたしはあの子の味方。いまあんたが言ってる事は嘘じゃないだろうけど片方だからね、あんたもたいがいなのはわかってるでしょ」
これが言える奴だから俺はここに来た。
安心できる。
周りに居てる子らにもああだこうだと絡みながら、
笑いあいながら彼氏が作る雑煮を食いながら呑んでいるとまたチャイムが鳴った。
近所に住むユリの母親が来た。
御年72歳、短髪の蒼髪で巨乳。
BMWのリッターバイクで二年前に北海道に行き事故って死にかける。
最近まで高田馬場の駅前で蕎麦屋をやっていた。
もう十分おなか一杯。
めっちゃいい女。
そのいい女が俺の顔を見てすぐに、
「あんた、大丈夫かい?」
何も話していないのに、物凄い楽しく過ごしていたのに、
一発で見抜かれた。
「そうかい、まあでもいいよ、おまじないしてあげる」
おっぱいスリスリ、おっぱいスリスリ。
「これで大丈夫!ご利益本当にあるんだから!」
めっちゃかわいい!有難い!!
その後、なんだかんだ話したが覚えてはいない。
俺は、散々呑んでお母さんが帰ったタイミングで中井を後にした。
懐かしい家族と魔女の祝福を受けて、
一路、歌舞伎町へ。
ハッピーハードコア③
四条畷は坂が多い。
担任に命じられたミッションをこなすべくやってきた不登校の同窓が住んでいるのはそんな場所だった。
俺たちは不慣れな土地を彷徨っていたが、
学級委員長で剣道部の尾崎はネットもない時代に少し迷いつつもそつなく目当ての住所を突き止めた。
チャイムを押し、初めて森村の母親と対峙した。
短髪で勝気そうな、自分が想像している母親像とは一味違った。
今の自分から見ればああそういう事かと想うような。
多くを聞く事も聞かれる事もなく森村の部屋に通された。
それも何とも違和感があったがおそらく担任から根回しがあったんだろう。
茶の一つも出てこなかったが俺達には気にならなかった。
なにせ俺たちはあまりに子供だったから。
不登校の高校生を学校に立ち還らせるなんて事は考えてない、
ただ、あいつに会いに来ただけ、少なくとも俺は。
昭和の建売丸出しの、ボロいとまでは言わないが流行りの安普請。
確か森村の家は両親ともに教師だとかなんだとか。
稼ぎは悪くなかっただろう。
俺は大工の息子で、ガキの頃には親父の現場で遊んで過ごした。
家が建っていく姿を見て育った俺は今でもやはりパッと見て建物の「姿」が観える。
板敷きの上に薄いカーペットを糊付けした床。
そこに森村は座って待っていた。
「おう、どした」
奴は多くは聴かない。
それが否応なしに緊張感を高めた。
「森さん久しぶりやな、会いにきたで」
さすが委員長口火を切った。
ちなみに委員長も森村も剣道をやっている。
道中聞いたが森村は大会で名が上がるくらいの腕はあるらしい。
委員長も大会で遣りあうくらいには腕のある剣士だった。
でまあその繋がりがあるからこのネゴに選ばれたのだなと理解した。
そらね、俺は剣士同士の意味不明な緊張感を感じて黙っていたわけで。
これが俺の得意能力でもあるアンテナなんだが、これにいつも助けられた。
森村は俺を睨んだ。
「お前も来たんか、どうした」
「どうしたというか、まあ来たよ」
言いようは無い。
何もない。
俺は手に持っていたビニール袋を差し出していった。
「まあ、呑むか」
部屋の真ん中にどっかと座る森村と俺たちは正三角形になった。
森村は決してガタイのいい男ではない。
痩せぎすのカマキリのような顔をした奴だ。
しかし故に何を考えているか分からない昆虫のような男だ。
俺はそこが好きだった。
「森さん、学校にこんか」
委員長は正眼に構えていきなりの一閃である。
俺は正直度肝抜かれた。
え?前置き無し?いきなりいくの?
後はよく覚えてない。
一足一刀の間合いで語り合う二人。
剣士同士の問答が始まる。
なぜ学校に行かねばならないのか、
何の意味があるのか、なんだとかかんだとか。
俺はそれを傍でただ見ていた。
つまり立ち合い人だ。
議論が白熱し森村の拳が強く握られたのを見た俺はそこで言葉を発した。
「まあ分かった!とりあえず今日はこれ買ってきたからいっとこ!」
二人ともそこではたと気がついた。
なに、森村の拳だけが強いわけではない、
委員長が正座しながら薄く腰を挙げているのが見えたからだ。
二人よりも体が大きく二人と話ができる俺が体躯に声を響かせれば、
一時は稼げる、それだけの話。
そして俺たちはまずは一献を傾けながら建築について話し始めた。
そう、俺たちはまだ毛も生え揃わない建築の学び舎に集まった何者か。
しかしここで俺は衝撃を受ける。
委員長はすでに己の中に建築の何たるかを持っていて、
森村はすでに建築ではなく美術を志していた。
二人は建築の中にある美術(アート)とは何かを議論し、
俺はそれを傾聴しながら、何を言っているんだこいつらはと思いながらも、
二人の言葉の端々に自分の理解と感性と知識が及ぶ領域を見て発見に喜んだ。
時に頭に血が上った森村が酒瓶を握るのを制しながら、
それに一歩も引くことのない委員長の胆力に呆れながら、
こんな話だけを覚えている。
階段の話である。
森村は言う、
「俺は階段の蹴上げが1mあろうともそれが階段であれば、
それはアートであり建築として成立する」
委員長曰く、
「階段は人が使ってそれが安全に成立するから階段であってそれは階段ではな
いしアートかもしれんが建築ではない。」
と。
俺はどっちの言い分も分かるしどっちにも賛同できるがそれぞれがたどり着きたい場所が違うのにそんなもん言い合ってどうするんだと呆れていた。
そんなこんなの夜を過ごして、次の朝俺たちは森村の実家を後にした。
俺は帰りに森村が描いた油絵を一枚もらった。
今にしてみればなんとも稚拙で、マグリットの偽物みたいなものだが、
「継続」と名付けられたそれは今も俺の実家に飾られている。
その後、数日して森村は学校に出てくるようになった。
ちなみに森村はその後イギリスのなんとかいう街に留学して食えない作家として今も作品を作り続けている。
なぜこんな話を長々としたかというと。
富田林にあるという大阪芸術大学の学園祭に行くにあたり、
当時優秀だった委員長はあのやさぐれた高校の建築学科から大学にエスカレーターで上がっていった秀才で、今や世界で最初の株式会社とか言われている建築事務所に勤めている。そして俺は河内松原に住んでいる委員長に声を声かけてナビを頼んだ。まあ、貸しはあるから水先案内人を頼んだのだ。
当時未踏だった大阪の南へ、人は、大事だよ。
グランカスタマ②
正月、1月2日の江古田は閑散としていて。
あいつの好物はケンタッキーだったがやってない。
3軒回ったが全部閉まってた。
悔しいがかろうじて開いていたミスドでしこたまドーナツ買い込んで、
自分が呑む酒買い込んでまたジョグにまたがって目白通りを走る。
身を切るような寒さが己の先行きを暗示する。
落合南長崎を過ぎる辺りでピークになりつつ、
しかし、もう心休まる場所に行かねばもたない自分の情けさなを感じながら、
今の自分を問答無用に受け入れてくれる友の有難さよ。
317の交差点を右折して中井へ。
入り組んだ小道に入ったらすぐにそこにあいつらがいる。
俺たちの家族が幼い頃過ごした場所落合南長崎。
共にあの嵐のような優しい欠けがいのない時を過ごしたママ友が今も子供たちを守りながら過ごす家が中井にあった。
俺は子供たちのオムツを9割がた替えて、保育園の送り迎えはすべてやった。これが偉いという事ではない、あいつはそういう事が苦手だった、だから俺がやった。それだけの事。女は生まれながらに母ではないし、男は生まれながれに父ではない。それだけの事だ。
そんな暮らしの中で出会ったいくつかの家族。それは今も戦友だ。そんな戦友の家に俺は羽を休めに泣き言を言った。
懐かしい、友の家。
何もかも失い、失う事を受け入れられず、情けない自分を映す鏡。
そんな場所が、俺がこれから生きていく世界の入口にあった。
中井辺りで北に潜り込んで、いつものミラベル辺りから潜り込む。
あいつのところは子供が多く、あいつらに久々に会うのも楽しみだ。
そう、愛しい同じ道を歩んだ家族よ。
ハッピーハードコア②
今ではもうよく思い出せない。
浪人している仲間と日々日々過ごす図書館で見た写真集。
アメリカ、フランス、イタリア、そこではないどこか。
わけの分からない理由で作り出されたこれらが好きでしょうがない、もしくは
まあこんなもんじゃないかという情念の塊がべったりとした印刷に刷り上げられた数々。
小説や漫画だけではなくて、大阪の地方都市に潜んでいる選者たちが税金を勝ち取って戦い掴みだした結果のアーカイブに浴す喜び。声なき声の主張に遊びながら大阪芸大という新しい場所を想った。
そこには何があるのだろう?彼女はそこが富田林にあるといった。
富田林。俺の高校の同級生の地元。太子とかいったか?もう一人いたな、たしか族の頭やってるとかいった。言葉の訛りも違っていた。「~でや」という語尾はなかなか衝撃的だった。大阪でありながら東北のような語尾。俺が通った90年代初期当時の大阪工大高建築科は大阪の南の奴らが多かった気がする。富田林、岸和田、松原。そう松原に高校の同級生がいたのを思い出した。あいつには貸しがある。
尾崎は剣道部で学級委員長だった。俺のクラスはとにかく問題児が多く、不登校児も二人ほどいた。俺は生来の人好きで誰彼構わず親しくなるのが時にいい方向にも悪い方向にも転がるタイプで、良い方に転がれば人付き合いの良いグッドマンで、悪い方に転ばればそれは八方美人の嫌な奴。それで苦労することもあれ、良い事もまた同じだけ。俺のクラスの担任は見た目とは裏腹の熱血で、不登校の奴らをなんとか立ち直させるために尾崎に指令を出した。教師が無理強いするのではなく仲間が働きかける事でそこに可能性を見出そうとした。尾崎はオタクで剣道部でもののふで器用な奴だった。俺はどこにも属さない、周囲から見ると変わり者だったらしい(後にそうだったと聞く)。
一人目。
ある日、尾崎が俺のところにきて言った。
「なあ、ちょっとお願いがあるんやけど」
「おぉ、なんや?」
「うん、こんどの土曜にもりさんところに行くんやけど一緒にいかん?」
「森村んところ?なんで?」
「吉森先生から言われたんや、声かけてきてくれって、お前仲いいやん」
「おお。仲いいというか話はするよ」
「頼むわ、俺はもりさん分からんから頼むわ」
「はぁ?分からんのにいくんかよ?何したいん?」
「とにかく行くんや、お前が一緒に行ってくれたらそれでたぶんいける」
「なにそれ?別に行くのはいいけど、なにがしたいん?」
「うん、とにかく会いたい、それだけや」
今思えば教育とはここにあるんだろう。
不登校の高校生を救おうという教員が選んだ方法は、
剣道家の端くれとはぐれ者の二人を送り込む事だった。
そして俺たちは四条畷のはずれに籠った同級生に会うためにちょっとした旅に出た。
グランカスタマ①
俺に残された物。
キャンプ道具と原付。
とりあえず家は出ていくが、荷物をすぐにすべて持ち出せはしない。
ちょこちょこ帰ってきては何処かへ持ち出すような事になるだろう。
そう思うと大層な、ずいぶん大層な遺言と言えるような手紙を子供たちに残してきたが、それもあながち間違いでも無いような気がしていた。
澄み切った空の下をYAMAHAのジョグに乗り走り出した。
年明け、家を出る日にとある打ち合わせを東久留米で入れていた。
ケツの蒼いガキじゃあるまいし、いい歳したおっさんが下向いて泣き言いってうつむいていたらそれこそ死神が寄ってくる。
今やる事、やりたい事、やらねばならない事、それはずっと動き続けている。
俺が嫁さんに家を追い出されてようと、金が無かろうと、体重が104kgあろうと、血圧が↑200↓120だろうと、俺が誰かが、待っている。
打ち合わせは昼一からだったからそれまでは時間がある。
さて、どうしたものか。俺は関越道の下でふと考えて、そしてまた走り出した。
そうだ、風呂に入ろう。
身を切るような寒さの中走ったことのない道を走り、
東久留米のスパジャポへ。
うわさに聞いていた人気のスーパー銭湯だ。噂に違わず正月二日なのに並んでいる。30分ほど並んでようやく入れた。岩盤浴も漫画もある盛りだくさんの施設だったが金をケチって岩盤浴はオミットした。足を延ばして風呂に入り、これから始まる2023年にあれこれと思いを馳せる。
正直言って、まさかこんな2023年を迎えるとは思ってもみなかった。風呂に入りながら、上がって小汗かきながら水飲みながら、どうやって生き延びるか、比喩ではなくそれを脳みそ絞って考えて疲れ果てて少し眠る。どこからどう来たのかよく分からない奴らが溜まるリラックススペースで、リラックスできない直近の未来から目を逸らすように、だけれども溶けるように眠る。
時間が来て湯冷めしないように着込んでまた走り出す。駅前に着いて飯でも食おうかと思ったが流石に正月の東久留米はほとんど閉まっている。怪しい中華屋が開いていたが中華という気分でもなく、魚系の居酒屋がやっていたから割高のから揚げ定食を食って東久留米の駅前をうろついてドトールにしけ込みコーヒーをすすりながら絵描きを待つ。
去年から取り組んでいる絵本の制作会議をぶち込んで、歳初めから幸先良し。
打ち合わせを終えていよいよ行き場がなくなった。
どこに行こう、もう、帰る場所は無い。
突然耐え難い現実が肩に手を回してきた。あまりに晴れた空の下、俺はもう帰る家が無いのだなと、思い知った。
とにかく走り出した。職場は都庁前、ならとにかく目白通り目指して走ろう。
仕事のシフトは明後日から、今向かっても何もない。でもとりあえず走ろう。
ジョグよ、俺に残された最後の内燃機関。水冷・4ストローク・SOHC・2バルブ
単気筒総排気量48cm3に身長186cm体重104kgを乗せて走る。
走り出し全開に開けたアクセルはそれでも少しフロントタイアを跳ね上げる。
流石やるじゃねえか。スピードが乗ればエアフィルターの音が澄んで切れる。
目白通りを走って緩やかに南へ、そうすればそこは懐かしい落合南長崎。
俺たち家族がみな幼い頃を過ごした街。何もかも懐かしい故郷。
ああそうか、奴らなら今の俺を受け入れてくれるだろう。
江古田辺りで駅前に寄り道して電話をかけた。
「明けましておめでとう。今から行ってもいいか?」
「ええ?なんも食いもんないしノブはめんどくさがってるよ」
「まじか、そらあかんな、ならまた別の日にするわ」
「嘘だよ、きなよ、何にもないけど酒だけ買っておいで」
ああ、少し、止まり木で休ませくれ、頼むよ。
ハッピーハードコア①
1976年。
昭和51年4月14日。
俺は寝屋川で生まれた。
あの頃の寝屋川といえばドブ川の匂いが立ち込める古い町で、
その町の神社の参道沿いにあるゴキブリ長屋と親達が自嘲していたボロい長屋に暮らしていた。
両親は共に伊勢志摩出身で、親父は大工でおかんは美容師。
死んだ爺さんは西陣織の彫り師で曲がった指で戦争に行けなかった。
曾爺さんは日本画家だったらしいが詳しくは知らない。
俺が四歳になる頃に守口に引っ越した。両親が家を買ったのだ。
70年代後半のオイルショックを乗り越えて世間はバブルに向かい猛然と進み始めていた。中卒の職人が二人力を合わせれば20代で家が買えた時代だ。
守口は松下と三洋のお膝元として栄え、俺たちもその恩恵に預かっていた。
ガキの頃は忙しい両親が日曜日に疲れ果て飯を作る気力もなくなりいつも焼肉に連れて行ってくれた。守口門真は在日韓国人も多く贔屓にしていたオモニの店で美味い焼肉をたらふく食って育った。その店も今ではもうない。
高校受験に際して、大工だった親父の心ひそかな希望であった建築士になるために、俺は大阪工業大学高等学校建築学科を選び無事合格した。癖の強い同級生たちと様々な新しい文化の衝突を繰り返しながら、地元に帰っては近所の土足禁止のジーパン屋に入り浸って、HIPHOP、ジーンズ、最新の米東海岸のアパレルと映画、様々な音楽にハマる日々を過ごした。
そして高校二年になった俺は気がついた。自分が三年生に進級したら国語の授業がなくなる事を、つまり今手にしている国語の教科書が俺の人生最後の国語の教科書であると。俺は国語の教科書が好きだった。授業では取りあげられない人知れず忘れ去られる運命を背負った様々な物語や詩歌、それらをすべて読み尽くす事が俺の密かな楽しみだった。
そんな中に運命の時が待ち構えていた。夏目漱石のこころ。中学の時に吾輩は猫であるに挫折して以来文学作品が苦手になっていたが、これも最後の出会いかと想い読み始めた。読み始めたのは国語の授業中、その次の社会の授業中も、その次の数学の授業中も構わず夢中になって読み続けた。あの時、俺は確かに自分の手で襖を開け、自分の目で血しぶきが走る壁と天井を見た。その時溢れた感情は幾重にも折り重なる「なぜだ!」という言葉になった。
俺は目が覚めた。自分が今求めなければならないものはこれだとはっきり分かった。生きてきてあんなに興奮したことはなかった。今でも鮮明にその衝撃を思い出すことができる。その後、俺はあらゆる文学作品を読み漁った。もう一度、もう一度あの衝撃を味わいたい、もう一度あの快楽を得たい。その一心で本を読み続けた。まさに文学に勃起していた。そうしているうちに、自分でも書いてみたいと思うようになった。
建築学科の担任に自分は建築士にはならず文学を学びたいと相談した。その時、止められるだろうし何を言われるのだろうかと内心醒めていたが、担任は意外にも俺の背中を押してくれた。安藤忠雄は建築士ではあるが奴の本質はそのプレゼンテーション能力にある。自分のコンセプトを人に伝える力がずば抜けている。そういう意味においてお前がやって来た建築の学びも無駄にはならないだろう。書くという事はより自由だからと。恩師も今は鬼籍に入り、母校は名を変え建築学科も今はもうない。
しかし適当な勉強しかしていない工業科の学生が大学なんぞ受かるはずもなく、
当然の如く浪人となった。同じく浪人になった地元の公立高校組の同級生たちと久しぶりに合流しつつ、緊張感のかけらもないのんびりしたとした浪人暮らしを始めた。毎日図書館に行って友人たちが参考書を積み上げるのと同じように小説や美術書や写真集を読み漁った。友人たちはお前大丈夫かと心配したがまあなるようになるだろうと俺は呑気なものだった。
そんなある日、駅前のツタヤで中学の同級生女子にばったりと再会した。彼女は大学に行っているという、面白い大学だから一度遊びに来たらいい、どんな大学か教えるから一度家に遊びに来いと。それほど仲が良かったわけではないが一つ話を聞いてみようと思い手土産もって彼女の家に遊びに行った。彼女はピアノをやっており大学でもピアノを専攻しているという。大学でピアノ?俺に音楽でもやれというのだろうかと思ったが、話を聞いてみると大阪の富田林に総合芸術大学があるという。そこには建築もあるし面白い人がたくさんいるということを教えてくれた。俺はそれまで大阪芸大の存在を知らなかったが、そんなところがあるなら一度見てみたいと俄然興味が湧いた。その頃すでに俺の中にあった一つの考え、文学を書くのが人間であるならば読むのも人間であり感動するのも人間だ。俺は人間の事を知らなければならない。そのために、大阪芸大という場所に何かがあるかもしれない。確信に似た何かが俺の胸に想起していた。