次の土曜日。
調子のいい不動産屋が指定してきた日程。
まだ金の用意がろくにできてはいないが、しかし躊躇もしてられない。
とにかくまずは話を聞いてみない事には始まらない。
そう思った土曜の昼下がり、不動産屋から電話が。
「すんみません、インフルにかかりまして、ちょっと動けないです」
出鼻をくじかれたが、ここは待つしかない。
しかし、突然なにも予定のない土曜日がやって来た。
帰る家も、落ち着く場所も何もない丸裸のホームレスの自分がそこにいた。
とりあえずバイクに乗って近くの公園にいく。
幸い天気は良い、そして小春日和の公園には小さい子を連れた母と父が、
公園の遊具を使ってたわいない事で喜び騒ぎ今日を確かめている。
俺はいつかの自分を、自分たちをそこにぼんやりと眺めながら、
どうしようもない明日への不安、それどころか一時間後すらもはっきりとはしない今という暮らしを嫌が応にも突き付けられながら苦い缶コーヒーを呑んでいる。さすがにこれはウドのコーヒーより苦い。
ふと大通りに目をやると、60歳過ぎのおっさんがボロいカートを引きずりながら歩いていく。直感で分かった、仲間だ。奴もそうなんだ。
暖かな陽の光を浴びながら、おっさんは一人、こんな休みの日に一人当てどなく歩いていく。何故か?答えは一つだ、歩くしかないから。
そう、歩いている限りこの社会の中に、街の中に紛れる事ができる。
歩くという事は、どこかへ向かうということ、どこにも向かわなくても歩いている限りどこかへはたどり着く。行き場のない道をただただ歩いてさえいれば。
それが今の自分なのだ、あのおっさんと何も変わりはしない。
俺は陽の光を浴びて、楽しそうに声を挙げる家族の陰を眺めながら震えて立ち上がった。そしてバイクに乗ってポケットの小銭をかき集めてまたグランカスタマへ帰った。いま僅かな金を惜しむくらいなら、あの窓のない部屋で少しでもいい、静かに眠りたいと。
バイクを止めて詰まった息を抜くために歌舞伎町を歩いて回る。
トー横にはやけに楽しそうなキッズが小さく群れている。俺も奴らも明日なぞ知らない。ただ今日抱えた凍えるような陽の光をどうやって忘れられるかと、
そんなありもしない共感を。
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グランカスタマ⑩
次の日もそつなく、何食わぬ顔で仕事をこなしまた歌舞伎町に帰ってきた。
そして受付を済ます。
「お部屋どうしますか?」
いつものように一畳部屋かと思いつつも、ワンチャン例のチャレンジ。
「ロフト空いてます?」
「ええ~と、空いてますね」
きた。
グランカスタマの個室は各部屋ごとに広さが微妙に違う。限られた面積のフロアを仕切っており、その部屋の区切り方によって広さと体感が違っている。その中でもロフト部屋は格別に広く、その名の通りロフト付きで仕事もできるほど広さがある。さらにそのロフト部屋でも場所によって広さが違うという仕様になっており、そこを抑える事ができるかどうかは運である。故にステイ常連の中には24時間更新の瞬間に受付で延長を申し出る者もおり、数百円の違いで格段に快適になるそのスペースを抑える事は一畳部屋で過ごすこととは格段の違いがある。
ついに、グランカスタマ部屋ガチャに勝った。
俺は逸る気持ちを抑えながら糞遅い油圧式の箱に乗り込み、憧れのロフト部屋に入った。驚くことにそこはロフトでも一番広い部屋であった。
「ひゃっふーー!!!!」
俺は思わず備え付けの椅子に座ってフロアでくるくると回ってみたり、
好き放題に荷物を乱雑に置いてみたり、なんでもない日常を全力で楽しんだ。
ひとしきりロフト部屋を楽しんだ後に風呂。
大浴場にゆっくりと浸かって汗を流し、心身ともにリラックスし部屋に戻ろうとしたその時モップを持ったスタッフとすれ違った。そのスタッフは見たことのないTシャツを着ており、俺は「あっちょと待って」と声をかけた。
そう、グランカスタマ名物であるレアスタッフである。
説明しよう、グランカスタマ内には通常のスタッフとは別のTシャツを着たレアスタッフが徘徊しており、そのスタッフに声をかけるとステイ時間延長クーポンなどの特典をゲットできるのだ。
柔道部っぽい感じの陰キャ丸出しスタッフは俺にニヤリと笑いかけ、
「どうぞ」と言葉少なにチケット渡し去っていった。無駄なコミュニケーションはしない。ここは歌舞伎町グランカスタマ。誰もが静かにすれ違っていくだけの仮の宿。
そして部屋に帰ると電話に着信。それはネットで見つけた安い物件に申し込んだ返事だった。さっそく折り返す。
「ああどうも、ご連絡いただいてたアースプランニングのハヤシです」
「どうも、部屋空いてますか?」
「いやぁすみません、例の部屋はまだ退去前でちょっとお時間もらうんですよ」
「そうなんですか?すぐに入れると思ったんですが」
「ですよね!ちょっと手間取ってまして」
「分かりました、ではしょうがないですね」
「ちょっと待ってください!練馬近くで3万円台ですよね!あるんですよ!」
「え!?」
「しかも風呂便所別!駅から歩いて10分以内です!」
「ええ!?」
もう怪しさプンプン。しかもこの不動産屋とは電話でしか話していない。
しかし、乗るしかないこのビッグウェーブに。
波が来ている、風が吹き始めた。
グランカスタマの祝福が俺に囁きかけていた。
グランカスタマ⑨
窓もない、一畳程度の空間。
そこに引きこもって得られる安心感は何より現実から俺を守ってくれた。
安い酒を呑んでyoutubeを観ながらひと時、脳を殺す。
幸いにも金もルートも無いから草も玉も粉も手に入らない。
安く優しく酒を呑んで山田五郎の与太話を聴きながら過ごす安寧。
あっという間に朝がやってくる。
必要もないのにカレーを食って、無駄に卵を乗せて体に良いと言いきかせ、
泊まりにかけた僅かな金の元を取ろうと必死にカレーを胃袋に流し込む。
地下にあるカレーと漫画が並べられた沈黙のコーナーにいると、
そこにどこから来たのか、どこに行くのかも分からない、
歳も姿もバラバラな男と女が皆一様に黙々とカレーを胃袋に流し込んでいる。
嫌が応にも今の自分を突き付けられる。
そして俺はバックパックに今の自分のすべてを詰め込んで歌舞伎町に出ていく。
そして都庁前に何食わぬ顔して出勤していく。
ホームレスであることを誰に告げるわけもなく、
キレイなオフィスで何食わぬ顔で仕事をする。
周りで働く同僚たちはそれぞれどこかに帰っていくが、
俺はどこにも帰る事が出来ずにまた歌舞伎町に帰っていく。
行き場のない、頼るものもない、寂しさ。
そんなことを知る由もない歌舞伎町のトー横には今日もキッズが群れ遊び、
人目を避けた場所にジョグを停めてまた宿をとる。
思えばあのキッズ達の親は俺と同年代か。
おい、お前らの親父もこうして歌舞伎町で生きているぜ。
もう慣れたもんでさっさとチェックしてグランカスタマのエレベーターへ。
チェックインした時にもらえるドリンクチケットで飲みものを取り、
安定のノロい油圧式かと想うような箱がやって来た。
ドアが開き乗り込むと他の客が駆け込んできた。
厳ついダブルのライダーズジャケット。
顔を見ると俺よりも年上のおっさん。
顔に刻まれた深い皺は、バイクと共に風を切ってきた証。
今日は4階だから長い、バイカー親父は沈黙。
時折その筋肉の動きに合わせてライダースジャケットが軋む。
機械の音とよく手入れされたジャケットから油の匂い。
なんでこんな厳ついおやじがここで休むのか。
ライダーは3階で降りて行った。
ああ、そろそろ洗濯しなくちゃな。
グランカスタマ⑧
ひとしきり看板ウォッチを終えて寝床に帰ってきた。
さて、とりあえず飯と酒だな。
グランカスタマ歌舞伎町の一階は受付とコンビニになっており、
謎のアジアンブランコが設置されている。
俺が帰ってくると先ほどとは別のトー横キッズの女子がブランコに乗って楽しそうにしている。このブランコはよほどいい暇つぶしなんだろう。そして「わたし可愛い」を映えるアイテム。なんて考えながら嫌気がさす。
彼女はたいそう襟が大きなコートを着て、白いタイツを履いた足を惜しげもなく見せびらかして、そんなに激しく乗るもんでもないブランコを揺らしている。
不思議とエロさは無く、そこはかとない幼さと儚さが詫び寂び。
いかにも歌舞伎町、これが今の歌舞伎町ということか。
こういう詫び寂びは10年前の歌舞伎町には無かった。
いわゆる「萌え」がこの街にも浸透してきたのだろう。
ドぎつい夜の装いにカワイくて萌えのある装いが馴染んだ。
しかしやってる事は昔より幼く危険で定めがない。
歌舞伎町の新しいモードを横目に見ながらふとグランカスタマには大浴場があることを思い出した。俺はとりあえずささっと風呂に入り、ゆっくりと足伸ばして流した汗の分だけ一階のコンビニで酒を買い込む。思えば今日はろくに食っていない。もはや何を食ってもいいわけだが、だからといって好きに食っていては体がもたぬ。思えば俺の親父も50歳過ぎで家を出て行った、追い出したのは俺。つまり、どんな理由があろうとも自分の父親を家から追い出した報いを俺は受けているのだろう。そんなことを想った。親父は家を出てから程なく糖尿病で体を壊した、俺もその気があるから同じ轍は踏めない。
野菜、発酵食品、酒。気にしながら選ぶ。
そう、俺は東京のど真ん中でサバイバルしている。いま、一つ一つの選択が明日の自分の命を決める。寝床、トイレ、洗濯、食事。何一つ安定していない。明日はどこで何をしているか分からない暮らし。わずかな金があるからとりあえずエアコンが聞いた空間は確保できているが、今の俺はホームレスに違いは無い。
コンビニの総菜を選びながら肝を冷やしつつ、今欲しい物を抱えてレジに並ぶ。
俺の前に色白の若い男が二人、男、男か?いや男だな。
しかし、二人とも頭に赤い耳がついている。顔を見るとオルチャンとかいうやつか、白塗りのような例のあれ。
「ねぇねぇ、あれ買う?キノコ?タケノコ?」
「ええ!?どっち派?キノコ派?」
「うんタケノコ?キノコどっちでもよくね?」
「それな、美味いしな」
「それな」
レジに並びながらふと思う、今も昔もそんなに変わらんのだなぁと。
トー横キッズと呼ばれるこの赤い耳したキッズは、
差異ではなく本質を捉えた。
それな。
グランカスタマ⑦
歌舞伎町。
今も昔も背中に油断できない街。
この街を御用聞きで回っていたのはもう15年も前。
あの頃、この街にいた奴はもう誰もいない。
今は新しいこの街の住人達が幅を利かせている。
それは驚くほど若く、か細く、故に危うく。
自分は随分年老いたのだと知り、
同時にまだこの街にいて背中に寒気を覚えるくらいには覇気はあると知る。
正月三箇日の中日に街角に積みあがるゴミ袋、
街ゆくマスクもしない男女、
形を変えたビルディング。
俺は煌びやかな看板、
そして異様に巨大な液晶パネルに目を見張った。
職業柄それぞれのサインの見積りが目に見える。
なんという金額をかけているのだろうか。
1000万超えの看板がそこかしこに並んでいる。
これはどういう事だろうか、
これだけの数を撃てば安くもなるのか?
また液晶に関わらず打ち出し板金の看板やネオンもある。
看板屋が技術と情報を競い合っている。
これは凄まじい。
俺はひと時自らの愚かさも不幸も忘れて写真を撮りまくった。
仕事をしよう。
新しい仕事を。
歌舞伎町が、それを教えてくれている。
グランカスタマ⑥
エレベーターを降りるとそこはダンジョン。
見た目は壁に貼られた光沢のある内装材でラグジュアリーな廊下。
しかし、入り組んだそれはまさにダンジョン。
虫の巣といおうか、
限られた敷地にギュッと押し込んだ間取り。
そのマップが廊下にあるのだが、
このマップが正確であることを知るのはもうちょっと後の話。
アテンドされた部屋にとりあえず荷物を置き、
部屋というか、窓もなく一畳ほどの隔離区画された場所。
それはまさに独房。
しかし、今の俺にはそれが何より有難い。
少なくとも、他から隔絶された、
少し間だけ一人になれる、独りの俺の場所を確保できる。
今は、それだけでただ有難い。
なにより、寒さに命を脅かされることなく、
ぼんやりとだが人の生きる場所に居る事ができる安堵。
帰る場所を失う人間の心細さ、
それを知って拠り所のない、
行き場のない感情が喉の奥から戻ってくるのを抑え込んで耐える。
だから俺は夜の歌舞伎町を散歩することにした。
もう、帰るところは無いのだ。
ただ、ここからまた俺は、独りで始めるのだ。
そんな気持ちを持て余しているぐらいなら、
歌舞伎町で暴れまわるトー横キッズや変わり果てた想い出でも眺めに行こうと。
金もない、情けない、ダサいおじさん。
それが俺だ。
光と影が渦巻く、情報が氾濫する街にそんな自分を紛らわせるため部屋を出て、エレベーターに向かう。
油圧式かと思うほどにトロいエレベーターがゆったりやってくる。
そしてドアが開いた。
先客が乗っている。
ちょんまげ2ブロックのスーツニキ。
これはまた尖がってるね。
ニキは電話している。
「おん、おんおん、それは分かってるから?で??」
荒ぶるちょんまげ2ブロックスーツニキ。
ちょっとこっちを見て声を潜めつつ、
しかし揉めているのは間違いなく。
いや、エレベーター内でそれはやめてよ、
辛いよこっちは。
一階に着いてニキは肩で風切って出て行った。
何を揉めてるのか知らんが耳に残る言葉は、
「そんなもんTENGAでも買っとけ!」
お、おう。
ドンキが安いみたいよニキ。
グランカスタマ⑤
正月の凍てついた夜の歌舞伎町。
俺は歌舞伎町の正面から左に回り込んでジョグを止める場所を探し回った。
トー横を原付押して突っ切り裏手へ、
交番でグランカスタマの場所を聞いた。
「グランカスタマってどこにありますか?」
「え?そこだよ?」
交番のお回りは半ばあきれ顔で応えた。
俺は気恥ずかしくなりつつ原付を押してグランカスタマの前で立ち止まった。
とにかくまずはここでしばらく耐えるしかない。
いつまで、どこまで。
それさえ分からないがとにかく今あるわずかな銭で凍死しない事だけを目指して。
背中には最低限の耐寒装備があるが、
しかし俺は気がついた、だからと言って容易く野宿できる場所は新宿には無い。
歌舞伎町にたどり着く前に街をうろつき下見したが、
めぼしい場所にはすでに先住民がいる。
そらそうだ、居座れる場所があるならそこにはすでに誰かがいる。
俺は野宿は諦めてとりあえずどこかに宿を取ることを選んだ。
そしてやはりそこは歌舞伎町となった分けだ。
とりあえず人目につかない街陰にジョグを停め、
俺は歌舞伎町に降り立った。
懐かしい、青春の最後を過ごした街。
トー横キッズが荒らしまわり、
東京の中でも随一の異様を称える街となった歌舞伎町。
今も昔も背中に油断ができないのは変わりなく、
人は若返り目に見える様は随分変わった。
とにかく、まずは宿を取る。
オリバーツリーのLife Goes Onが鳴りび響くホストビルを横目にグランカスタマに入る。入口横にはローソンがあり、これはおそらく持ち込みが可なのでライフラインとなるのだろう。謎の安っぽい籐でできたブランコベンチにこれまた安っぽい白いコートを着たオルチョンな若い女子がケタケタ笑いながら座ってる。受付に並ぶ客は様々で、金があるんだか無いんだかレストなのかステイなのか分からない、生気があるのか無いのか分からないそんな姿。そこに紛れてチェックインするも、次々やってくるレシート持ったステイ客が優先的に捌かれていきまた部屋に戻っていき新規客は後回しになる。この一事を持ってもしてもステイ客が多い事を教えてくれる。
何人か待たされてやっと俺の番が来た。
「いらっしゃいませ、こちら初めてのご利用でしょうか?」
口馴れたスクリプトが出迎える。
「はい、初めてです」
「では身分証明証を拝見できますか?会員登録が必要になります」
見た目は貧しく清潔な若者。故に丁寧なスクリプトが引き立つ。
客として来る派手で怪しく、この世の春を味わう同年代に紛れる陰キャ。
時に年老いた怪しく、出所不明な連中を佃煮にするほど相手してきたのだろう。
ハローワークの窓口派遣社員と同じような目をしている。
「お時間どうしますか?」
「ああ、12時間、朝まで」
「ナイトパックですね、それではオプションいかがしますか?」
「なにがあるの?」
「タオルとブランケットは無料です」
「じゃあそれで」
こっちは初めてだから何も分からない。だから言われるままに。
いうてもここは鍵付きネカフェ、そんなもんだろ。
そう思っていたがどうも勝手が違う。
俺はオプションを受け取って入口近くのエレベーターに向かった。
そこから見える壁に椿かダリアか何かが描いてある。
ベーター横のドリンクの自販機の前に女が一人立っている。
キリっとの
キリっとしたボブに大きい花柄ニットの女。
女といっても俺からしてみれば親子ほど年も違うだろうが、
色気が噴出している。こんなのが一人でここに来るのか。
手には大荷物を持っている、恐らくステイ客だ。
余計な視線は野暮というもの。
俺は歳の割にはたっぷりとした肉置きから顔をグイッと背け、
エレベーターを待ちわびる顔を作った。
そしてようやく扉が開きエレベーターに乗り込んだ。
閉まりかける扉を押し分けて、さっきの花柄ボブが乗り込んできた。
手に持ったドリンクが少しこぼれて、
「あ、ごめんなさい」
と歌舞伎町に似つかわしくない声で遠慮をした。
俺は無言で扉を制して花柄ボブを迎え入れ、
「どこまで?」と聞こうとしたが彼女はサッと3階のボタンを押した。
油圧式かと思うほどにレスポンスの悪いエレベータの中で、
匂い立つ牡丹柄のニットに目が釘付けになりならが、
無言のひと時に息が詰まる、いま大きく息をしたらきっと。
彼女は3階で降りて、俺は4階で降りた。
グランカスタマの魔性が俺を出迎えた。
そんな気がした。
グランカスタマ④
中井から南下して中野坂上辺りで東へ。
そこから新宿駅の巨大な構造を回りこんで新宿東口方面へ。
そこは真夜中の新宿歌舞伎町。
正月の歌舞伎町。
この街に帰ってきたのはもう十数年ぶり。
かつて俺は某風俗ポータルサイトの営業マンをしていた。
歌舞伎町には店を持っていなかったが同僚の店に呼ばれてあれこれしていた。
俺の担当は、恵比寿、鶯谷、池袋、大宮、関内、西川口、錦糸町、小岩、新小岩。
あの頃、仕事に就いたばかりの俺にあれこれ仕込んでくれた上司が言っていた。
石原都知事の浄化作戦で歌舞伎町もつまらなくなった。
歌舞伎町には夜になればまっすぐ歩けなくなるくらい人が集まっていた。
しかし浄化作戦が行われ街から人が消えてしまった。
そしてブラジル人が消えて中国人が増えた。
つまらねぇ、と。
今の歌舞伎町は自分にとって、
リーマンショックの時にあの業界から足を洗い、
今となっては「うな鐵」くらいしか知りようもない古巣だ。
ゴールデン街で朝方寝転んでいたら角刈りのおかまの爺さんだか婆さんだかに起こされて一緒に茶を飲んだり、元旦に60歳オーバーのバーのママと一緒に花園神社の初詣に行ったが人が多すぎて断念したり、謎の老人集団にぼったくられたり、そんなことは10年以上も遠い昔となってしまった。
とりあえず歌舞伎町に降り立ち直面したのはジョグの置場。
クッソ高い家賃の歌舞伎町には原付すら路駐する場所も甘くはない。
油断すればクッソ金がかかる。
そこはもう嗅覚に頼るしかない。
帰る家を無くしたなぜ俺がそんな金のかかる歌舞伎町になぜ来たかと言えば、
1月4日から仕事が始まり現場は都庁前。
なのでもう新宿にとりあえず仮の宿を見つけるしかない。
そういう理由からだった。
アテはあった。
前々から気になっていたネットカフェだ。
何かの時に広告を見ていた。
そこは鍵付きの個室でシャワーだけではなく大浴場があり、
ネットもあり漫画もあり、何よりカレーが食べ放題なのだという。
なんだその楽園は。
全てを失い、しかしとりあえず食い扶持は確保している俺が宿を取る。
そのために必要なのは安いホテルではない。
諸々のコストを考えたときに快活クラブも選択肢に入るのだろうが、
その時点では俺にはそこしかなかった。
「グランカスタマ」
俺の知らない歌舞伎町のど真ん中。
行き場を失ったトー横キッズが暴れまわるという噂の歌舞伎町。
今となっては年老いた俺が流れ着いて身を寄せる場所は、
そこしかなかったわけだ。
2023年1月2日深夜。
俺はホームレスになり歌舞伎町グランカスタマに潜り込んだ。
グランカスタマ③
中井は落合南長崎の隣。
複数の坂で繋がった複雑怪奇な下町だ。
新宿と言いながらまさに下町。しかも練馬にも似た荒くれた町だ。
故にそこには昔ながらの人情が息づいている。
正義や清廉が幅を利かせていない、人間が活きる街だ。
そんな中井にジョグで乗り込み、
俺は奴らの家にたどり着いた。
チャイムをピンポーンと押す。
「ほいー、いらしゃーい」
「ういうい、あけおめ」
なんとも雑に、もうこのコロナ禍で一年以上会っていなかったが、
いつものように。
SNSをやるようなタイプではないユリはそんな感じで俺を迎えてくれた。
これは理屈ではなくてお互い子育ての一番重い時期を支え合いやって来た戦友だからこその連帯感。俺はパパ、あいつはママ、だから何だっていうんだ。
俺は子らの送り迎えを95%こなし、ユリは四人の子を育てながら奮闘していた。お互い立ち位置は違いながらもそれぞれの苦労を労いあった。
生来俺はなぜか、俺自身はそうではないのにヤンキーに好かれる傾向があり、
ユリは根性焼きの跡があるレベルのヤンキーだったのも一因だろう。
保育園から見てきた子供らももう中学生とか五年生だとか高校生だとか職人だとか。それなりに今や俺の顔も真っすぐに見ないけど、でも同じテーブルに座ってどこかに行く事もない。話しかければなんだか恥ずかしそうに、後日LINEの登録してくるくらいには俺の居場所をくれる、赤の他人なのに親戚、魂の親戚。
ユリの彼氏も起きて来て正月に混ぜてもらう。行き場を失った俺が漂いながら、ようやく正月らしい席に座る事が出来た。
「ほんでな、実は俺、離婚するから家を追い出されたんや」
いきなりの火の玉ストレート。
ユリは頭抱えて、
「ええ!なんでよ、まあ、そうなるよね」
一瞬で逡巡しつつも腑に落ちた模様。
流石は戦友である。
彼氏は相変わらず顔色変えずに話を聞いている。
ここに及んで気がついたが、この彼氏はこういう人、良い悪いは別に。
ああだこうだ経緯を聞かせるもユリの見解は。
「そうだね、いろいろあるけどあたしはあの子の味方。いまあんたが言ってる事は嘘じゃないだろうけど片方だからね、あんたもたいがいなのはわかってるでしょ」
これが言える奴だから俺はここに来た。
安心できる。
周りに居てる子らにもああだこうだと絡みながら、
笑いあいながら彼氏が作る雑煮を食いながら呑んでいるとまたチャイムが鳴った。
近所に住むユリの母親が来た。
御年72歳、短髪の蒼髪で巨乳。
BMWのリッターバイクで二年前に北海道に行き事故って死にかける。
最近まで高田馬場の駅前で蕎麦屋をやっていた。
もう十分おなか一杯。
めっちゃいい女。
そのいい女が俺の顔を見てすぐに、
「あんた、大丈夫かい?」
何も話していないのに、物凄い楽しく過ごしていたのに、
一発で見抜かれた。
「そうかい、まあでもいいよ、おまじないしてあげる」
おっぱいスリスリ、おっぱいスリスリ。
「これで大丈夫!ご利益本当にあるんだから!」
めっちゃかわいい!有難い!!
その後、なんだかんだ話したが覚えてはいない。
俺は、散々呑んでお母さんが帰ったタイミングで中井を後にした。
懐かしい家族と魔女の祝福を受けて、
一路、歌舞伎町へ。
グランカスタマ②
正月、1月2日の江古田は閑散としていて。
あいつの好物はケンタッキーだったがやってない。
3軒回ったが全部閉まってた。
悔しいがかろうじて開いていたミスドでしこたまドーナツ買い込んで、
自分が呑む酒買い込んでまたジョグにまたがって目白通りを走る。
身を切るような寒さが己の先行きを暗示する。
落合南長崎を過ぎる辺りでピークになりつつ、
しかし、もう心休まる場所に行かねばもたない自分の情けさなを感じながら、
今の自分を問答無用に受け入れてくれる友の有難さよ。
317の交差点を右折して中井へ。
入り組んだ小道に入ったらすぐにそこにあいつらがいる。
俺たちの家族が幼い頃過ごした場所落合南長崎。
共にあの嵐のような優しい欠けがいのない時を過ごしたママ友が今も子供たちを守りながら過ごす家が中井にあった。
俺は子供たちのオムツを9割がた替えて、保育園の送り迎えはすべてやった。これが偉いという事ではない、あいつはそういう事が苦手だった、だから俺がやった。それだけの事。女は生まれながらに母ではないし、男は生まれながれに父ではない。それだけの事だ。
そんな暮らしの中で出会ったいくつかの家族。それは今も戦友だ。そんな戦友の家に俺は羽を休めに泣き言を言った。
懐かしい、友の家。
何もかも失い、失う事を受け入れられず、情けない自分を映す鏡。
そんな場所が、俺がこれから生きていく世界の入口にあった。
中井辺りで北に潜り込んで、いつものミラベル辺りから潜り込む。
あいつのところは子供が多く、あいつらに久々に会うのも楽しみだ。
そう、愛しい同じ道を歩んだ家族よ。