次の土曜日。
調子のいい不動産屋が指定してきた日程。
まだ金の用意がろくにできてはいないが、しかし躊躇もしてられない。
とにかくまずは話を聞いてみない事には始まらない。
そう思った土曜の昼下がり、不動産屋から電話が。
「すんみません、インフルにかかりまして、ちょっと動けないです」
出鼻をくじかれたが、ここは待つしかない。
しかし、突然なにも予定のない土曜日がやって来た。
帰る家も、落ち着く場所も何もない丸裸のホームレスの自分がそこにいた。
とりあえずバイクに乗って近くの公園にいく。
幸い天気は良い、そして小春日和の公園には小さい子を連れた母と父が、
公園の遊具を使ってたわいない事で喜び騒ぎ今日を確かめている。
俺はいつかの自分を、自分たちをそこにぼんやりと眺めながら、
どうしようもない明日への不安、それどころか一時間後すらもはっきりとはしない今という暮らしを嫌が応にも突き付けられながら苦い缶コーヒーを呑んでいる。さすがにこれはウドのコーヒーより苦い。
ふと大通りに目をやると、60歳過ぎのおっさんがボロいカートを引きずりながら歩いていく。直感で分かった、仲間だ。奴もそうなんだ。
暖かな陽の光を浴びながら、おっさんは一人、こんな休みの日に一人当てどなく歩いていく。何故か?答えは一つだ、歩くしかないから。
そう、歩いている限りこの社会の中に、街の中に紛れる事ができる。
歩くという事は、どこかへ向かうということ、どこにも向かわなくても歩いている限りどこかへはたどり着く。行き場のない道をただただ歩いてさえいれば。
それが今の自分なのだ、あのおっさんと何も変わりはしない。
俺は陽の光を浴びて、楽しそうに声を挙げる家族の陰を眺めながら震えて立ち上がった。そしてバイクに乗ってポケットの小銭をかき集めてまたグランカスタマへ帰った。いま僅かな金を惜しむくらいなら、あの窓のない部屋で少しでもいい、静かに眠りたいと。
バイクを止めて詰まった息を抜くために歌舞伎町を歩いて回る。
トー横にはやけに楽しそうなキッズが小さく群れている。俺も奴らも明日なぞ知らない。ただ今日抱えた凍えるような陽の光をどうやって忘れられるかと、
そんなありもしない共感を。
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グランカスタマ⑧
ひとしきり看板ウォッチを終えて寝床に帰ってきた。
さて、とりあえず飯と酒だな。
グランカスタマ歌舞伎町の一階は受付とコンビニになっており、
謎のアジアンブランコが設置されている。
俺が帰ってくると先ほどとは別のトー横キッズの女子がブランコに乗って楽しそうにしている。このブランコはよほどいい暇つぶしなんだろう。そして「わたし可愛い」を映えるアイテム。なんて考えながら嫌気がさす。
彼女はたいそう襟が大きなコートを着て、白いタイツを履いた足を惜しげもなく見せびらかして、そんなに激しく乗るもんでもないブランコを揺らしている。
不思議とエロさは無く、そこはかとない幼さと儚さが詫び寂び。
いかにも歌舞伎町、これが今の歌舞伎町ということか。
こういう詫び寂びは10年前の歌舞伎町には無かった。
いわゆる「萌え」がこの街にも浸透してきたのだろう。
ドぎつい夜の装いにカワイくて萌えのある装いが馴染んだ。
しかしやってる事は昔より幼く危険で定めがない。
歌舞伎町の新しいモードを横目に見ながらふとグランカスタマには大浴場があることを思い出した。俺はとりあえずささっと風呂に入り、ゆっくりと足伸ばして流した汗の分だけ一階のコンビニで酒を買い込む。思えば今日はろくに食っていない。もはや何を食ってもいいわけだが、だからといって好きに食っていては体がもたぬ。思えば俺の親父も50歳過ぎで家を出て行った、追い出したのは俺。つまり、どんな理由があろうとも自分の父親を家から追い出した報いを俺は受けているのだろう。そんなことを想った。親父は家を出てから程なく糖尿病で体を壊した、俺もその気があるから同じ轍は踏めない。
野菜、発酵食品、酒。気にしながら選ぶ。
そう、俺は東京のど真ん中でサバイバルしている。いま、一つ一つの選択が明日の自分の命を決める。寝床、トイレ、洗濯、食事。何一つ安定していない。明日はどこで何をしているか分からない暮らし。わずかな金があるからとりあえずエアコンが聞いた空間は確保できているが、今の俺はホームレスに違いは無い。
コンビニの総菜を選びながら肝を冷やしつつ、今欲しい物を抱えてレジに並ぶ。
俺の前に色白の若い男が二人、男、男か?いや男だな。
しかし、二人とも頭に赤い耳がついている。顔を見るとオルチャンとかいうやつか、白塗りのような例のあれ。
「ねぇねぇ、あれ買う?キノコ?タケノコ?」
「ええ!?どっち派?キノコ派?」
「うんタケノコ?キノコどっちでもよくね?」
「それな、美味いしな」
「それな」
レジに並びながらふと思う、今も昔もそんなに変わらんのだなぁと。
トー横キッズと呼ばれるこの赤い耳したキッズは、
差異ではなく本質を捉えた。
それな。
ハッピーハードコア③
四条畷は坂が多い。
担任に命じられたミッションをこなすべくやってきた不登校の同窓が住んでいるのはそんな場所だった。
俺たちは不慣れな土地を彷徨っていたが、
学級委員長で剣道部の尾崎はネットもない時代に少し迷いつつもそつなく目当ての住所を突き止めた。
チャイムを押し、初めて森村の母親と対峙した。
短髪で勝気そうな、自分が想像している母親像とは一味違った。
今の自分から見ればああそういう事かと想うような。
多くを聞く事も聞かれる事もなく森村の部屋に通された。
それも何とも違和感があったがおそらく担任から根回しがあったんだろう。
茶の一つも出てこなかったが俺達には気にならなかった。
なにせ俺たちはあまりに子供だったから。
不登校の高校生を学校に立ち還らせるなんて事は考えてない、
ただ、あいつに会いに来ただけ、少なくとも俺は。
昭和の建売丸出しの、ボロいとまでは言わないが流行りの安普請。
確か森村の家は両親ともに教師だとかなんだとか。
稼ぎは悪くなかっただろう。
俺は大工の息子で、ガキの頃には親父の現場で遊んで過ごした。
家が建っていく姿を見て育った俺は今でもやはりパッと見て建物の「姿」が観える。
板敷きの上に薄いカーペットを糊付けした床。
そこに森村は座って待っていた。
「おう、どした」
奴は多くは聴かない。
それが否応なしに緊張感を高めた。
「森さん久しぶりやな、会いにきたで」
さすが委員長口火を切った。
ちなみに委員長も森村も剣道をやっている。
道中聞いたが森村は大会で名が上がるくらいの腕はあるらしい。
委員長も大会で遣りあうくらいには腕のある剣士だった。
でまあその繋がりがあるからこのネゴに選ばれたのだなと理解した。
そらね、俺は剣士同士の意味不明な緊張感を感じて黙っていたわけで。
これが俺の得意能力でもあるアンテナなんだが、これにいつも助けられた。
森村は俺を睨んだ。
「お前も来たんか、どうした」
「どうしたというか、まあ来たよ」
言いようは無い。
何もない。
俺は手に持っていたビニール袋を差し出していった。
「まあ、呑むか」
部屋の真ん中にどっかと座る森村と俺たちは正三角形になった。
森村は決してガタイのいい男ではない。
痩せぎすのカマキリのような顔をした奴だ。
しかし故に何を考えているか分からない昆虫のような男だ。
俺はそこが好きだった。
「森さん、学校にこんか」
委員長は正眼に構えていきなりの一閃である。
俺は正直度肝抜かれた。
え?前置き無し?いきなりいくの?
後はよく覚えてない。
一足一刀の間合いで語り合う二人。
剣士同士の問答が始まる。
なぜ学校に行かねばならないのか、
何の意味があるのか、なんだとかかんだとか。
俺はそれを傍でただ見ていた。
つまり立ち合い人だ。
議論が白熱し森村の拳が強く握られたのを見た俺はそこで言葉を発した。
「まあ分かった!とりあえず今日はこれ買ってきたからいっとこ!」
二人ともそこではたと気がついた。
なに、森村の拳だけが強いわけではない、
委員長が正座しながら薄く腰を挙げているのが見えたからだ。
二人よりも体が大きく二人と話ができる俺が体躯に声を響かせれば、
一時は稼げる、それだけの話。
そして俺たちはまずは一献を傾けながら建築について話し始めた。
そう、俺たちはまだ毛も生え揃わない建築の学び舎に集まった何者か。
しかしここで俺は衝撃を受ける。
委員長はすでに己の中に建築の何たるかを持っていて、
森村はすでに建築ではなく美術を志していた。
二人は建築の中にある美術(アート)とは何かを議論し、
俺はそれを傾聴しながら、何を言っているんだこいつらはと思いながらも、
二人の言葉の端々に自分の理解と感性と知識が及ぶ領域を見て発見に喜んだ。
時に頭に血が上った森村が酒瓶を握るのを制しながら、
それに一歩も引くことのない委員長の胆力に呆れながら、
こんな話だけを覚えている。
階段の話である。
森村は言う、
「俺は階段の蹴上げが1mあろうともそれが階段であれば、
それはアートであり建築として成立する」
委員長曰く、
「階段は人が使ってそれが安全に成立するから階段であってそれは階段ではな
いしアートかもしれんが建築ではない。」
と。
俺はどっちの言い分も分かるしどっちにも賛同できるがそれぞれがたどり着きたい場所が違うのにそんなもん言い合ってどうするんだと呆れていた。
そんなこんなの夜を過ごして、次の朝俺たちは森村の実家を後にした。
俺は帰りに森村が描いた油絵を一枚もらった。
今にしてみればなんとも稚拙で、マグリットの偽物みたいなものだが、
「継続」と名付けられたそれは今も俺の実家に飾られている。
その後、数日して森村は学校に出てくるようになった。
ちなみに森村はその後イギリスのなんとかいう街に留学して食えない作家として今も作品を作り続けている。
なぜこんな話を長々としたかというと。
富田林にあるという大阪芸術大学の学園祭に行くにあたり、
当時優秀だった委員長はあのやさぐれた高校の建築学科から大学にエスカレーターで上がっていった秀才で、今や世界で最初の株式会社とか言われている建築事務所に勤めている。そして俺は河内松原に住んでいる委員長に声を声かけてナビを頼んだ。まあ、貸しはあるから水先案内人を頼んだのだ。
当時未踏だった大阪の南へ、人は、大事だよ。
グランカスタマ①
俺に残された物。
キャンプ道具と原付。
とりあえず家は出ていくが、荷物をすぐにすべて持ち出せはしない。
ちょこちょこ帰ってきては何処かへ持ち出すような事になるだろう。
そう思うと大層な、ずいぶん大層な遺言と言えるような手紙を子供たちに残してきたが、それもあながち間違いでも無いような気がしていた。
澄み切った空の下をYAMAHAのジョグに乗り走り出した。
年明け、家を出る日にとある打ち合わせを東久留米で入れていた。
ケツの蒼いガキじゃあるまいし、いい歳したおっさんが下向いて泣き言いってうつむいていたらそれこそ死神が寄ってくる。
今やる事、やりたい事、やらねばならない事、それはずっと動き続けている。
俺が嫁さんに家を追い出されてようと、金が無かろうと、体重が104kgあろうと、血圧が↑200↓120だろうと、俺が誰かが、待っている。
打ち合わせは昼一からだったからそれまでは時間がある。
さて、どうしたものか。俺は関越道の下でふと考えて、そしてまた走り出した。
そうだ、風呂に入ろう。
身を切るような寒さの中走ったことのない道を走り、
東久留米のスパジャポへ。
うわさに聞いていた人気のスーパー銭湯だ。噂に違わず正月二日なのに並んでいる。30分ほど並んでようやく入れた。岩盤浴も漫画もある盛りだくさんの施設だったが金をケチって岩盤浴はオミットした。足を延ばして風呂に入り、これから始まる2023年にあれこれと思いを馳せる。
正直言って、まさかこんな2023年を迎えるとは思ってもみなかった。風呂に入りながら、上がって小汗かきながら水飲みながら、どうやって生き延びるか、比喩ではなくそれを脳みそ絞って考えて疲れ果てて少し眠る。どこからどう来たのかよく分からない奴らが溜まるリラックススペースで、リラックスできない直近の未来から目を逸らすように、だけれども溶けるように眠る。
時間が来て湯冷めしないように着込んでまた走り出す。駅前に着いて飯でも食おうかと思ったが流石に正月の東久留米はほとんど閉まっている。怪しい中華屋が開いていたが中華という気分でもなく、魚系の居酒屋がやっていたから割高のから揚げ定食を食って東久留米の駅前をうろついてドトールにしけ込みコーヒーをすすりながら絵描きを待つ。
去年から取り組んでいる絵本の制作会議をぶち込んで、歳初めから幸先良し。
打ち合わせを終えていよいよ行き場がなくなった。
どこに行こう、もう、帰る場所は無い。
突然耐え難い現実が肩に手を回してきた。あまりに晴れた空の下、俺はもう帰る家が無いのだなと、思い知った。
とにかく走り出した。職場は都庁前、ならとにかく目白通り目指して走ろう。
仕事のシフトは明後日から、今向かっても何もない。でもとりあえず走ろう。
ジョグよ、俺に残された最後の内燃機関。水冷・4ストローク・SOHC・2バルブ
単気筒総排気量48cm3に身長186cm体重104kgを乗せて走る。
走り出し全開に開けたアクセルはそれでも少しフロントタイアを跳ね上げる。
流石やるじゃねえか。スピードが乗ればエアフィルターの音が澄んで切れる。
目白通りを走って緩やかに南へ、そうすればそこは懐かしい落合南長崎。
俺たち家族がみな幼い頃を過ごした街。何もかも懐かしい故郷。
ああそうか、奴らなら今の俺を受け入れてくれるだろう。
江古田辺りで駅前に寄り道して電話をかけた。
「明けましておめでとう。今から行ってもいいか?」
「ええ?なんも食いもんないしノブはめんどくさがってるよ」
「まじか、そらあかんな、ならまた別の日にするわ」
「嘘だよ、きなよ、何にもないけど酒だけ買っておいで」
ああ、少し、止まり木で休ませくれ、頼むよ。
グランカスタマ・プロローグ
2022年は散々な年だった。
オリンピック景気が霞始めた2019年辺りからケチがつき始めた。案件は減少傾向にあったがそれが一気に加速した感があり、ぐずぐずと金にならない仕事に足を引っ張られ徐々にすり減った。そこにコロナがやって来たのだ。しばらくは地震保険や助成金給付金で凌いでいたが2021年の後半にはそれも限界に達し、潜り込んでいたビルの外壁洗浄の現場にも怪我と狭い足場に186cm102kgの巨体が馴染まず一年で撤退。その間にベッタリ入り込んでいたサイン関連や細々とした修繕案件をくれていた顧客が全滅、何せほとんどが飲食店だったからモロに煽りを食らった。他業種の贔屓にしてくれていた社長もコロナで亡くなり、まさに丸裸になって新たな食い扶持を求めてコロナに疲弊する世間を彷徨った。
コンビニ、コールセンター、営業事務、細々と入る本業を粉しながら合間に丁度良い仕事を探すがそんな都合の良い仕事は無い。アップライジングを諦めて平日フルタイムの勤めにでるか、しかしそもそもその仕事が無い。稼げなくなった40超えた自営業者をほいほい雇うようなところは無かったそんな2022年初頭。
外装の洗浄は自分には向かなかったが仕事自体は嫌いではなかった。ネットで求人を漁っていた時にふと目に止まった内装クリーニングの募集。何げ無く応募してみたら案外近所で都合よくとにかく話を聞きに行った。
社長は何故か流暢な関西弁で喋る関東生まれの男で、いわゆる勢いがある系の経営者だ。そして面接でクリーニングの話をする。しかし内装と外装は全く畑が違うからお前の経験は役に立たないとバッサリ。まあ仕方ないかと思いきや経歴を話していくにしたがいどうやら過去に近しい業界にいた事が分かり、早い話事業拡張を考えていた社長から提案がもたらされた。
客は連れてくるから実務をやれ、事業が軌道に乗ったら子会社化も視野に。案件が動くようになったら社員にする、それまではこちらから別の仕事もだそう。
美味い話だ。だが正直言えば目に見える地雷。
しかし、チャンスの女神には前髪しかない。
俺は賭けた。
そして、負けた。
詳細は割愛する。
負けたのだ。
半年かけた仕込みは全て水泡に帰し、体力は尽き果てた。車を売り、カメラを売り、何もかも手放しながらついにアップライジングをから一次撤退する腹を括り新しい職を得た。
しかし、時すでに遅し。
カミさんは俺を見捨てた。金の切れ目が縁の切れ目。力無き者の末路である。
14年の歳月に積み重なった棘は一気に全てを引き裂いた。決して相性のいい夫婦ではなかった、多分今まで生きてきて一番喧嘩した相手だった。それでも互いに認め合い支え合ってやってきていたが、そう思っていたのは俺だけだったようだ。向こうにも言い分はあるしこっちにもあるが、道は分かたれ言葉はすれ違うのみ。
夫婦とはもっとも近い他人である。
ここから先は地獄しかない。互いに潰し合い奪い合う餓鬼畜生の争いが待っている。最初は俺の一人暮らしに必要な準備ができるまでは家庭内別居も構わないと言っていたが三日も経たずにすぐに出ていけと変遷する。何かおかしい、言いようのない違和感を感じていたがもはやそれすらも意味を持たないくらいにはすべて終わっていた。そんな中で唯一の希望があったのはようやく仕事が見つかった事。それは新宿でのコールセンター業務。年末には給料が出る、そのタイミングで俺は家を出る事を決めた。これ以上子供達に醜く奪い合い潰し合う親の姿は見せられない、ただそれだけの為に。
2022/12/30にカミさんと子供達は新潟の実家に帰省して行った。俺は1人仕事部屋を掃除してバックパックに寝袋やキャンプ道具にポータブル電源を詰める。万が一野宿でもすることになればこれが命綱になるだろう。玄関に俺の荷物が纏められている、早く出て行けと言わんばかりにゴミと一緒に並んでいた。住み慣れた我が家で1人年を越し、明けて2023/01/02になり、子供達に手紙を残して、
誰一人見送る者も無く俺は愛しい我が家を後にした。
お仕事募集中
うーむ。ボチボチと自分の周囲にもコロナ感染者が出てきているなぁ。
顔こそ知らないし誰かも分からないが子供らの学校からその手の話が聞こえてくる。親がPCR引っかかって子供諸共隔離とか。子供は大丈夫だったようだが、
いま自分たちがそういう状態になったら子供らが行き場がないし、瞬間に生活は破綻する。インフルエンザと変わらんじゃないかとか第二波なんか来てないとか、そうあってほしい話ではあるんだが実際はそう言い切れない。
ノーガード戦法で挑んだスウェーデンは集団免疫獲得に失敗し膨大な感染者と死亡者を出した。6月時点で厚労省が東京で行った8000人近い検体に対する抗体
検査は抗体確認されたのが0.1%程度だったようだ。もっとも抗体検査の精度に問題もあるようだからこれもなんとも言えない。
そして国は何があってもコロナで集団免疫だ!みんな働こう!とは言わないだろう。そうなって死者が出た回復した人にも後遺症が残ったとなれば集団訴訟が
起こるのは目に見えている。死者数考えればインフルエンザと変わらないのは
そうなんだろうし、経済が死ねばコロナどころの話ではなくなるのは火を見る
より明らかだが、国は最後の最後までそれを認めることはせんだろうなぁ。
だってどうしようもない事に責任取れなんて言われても無理だからな、しかし
その無理を通してくる奴らがいる以上身動きできない。我々の社会が持つ特性に我々自身が殺されるんだわな。
そういった状況を打破していくためには国民個人と社会の決断が求められるのだろう。つまりは働くなら働く、そして働き方を変えていく決断を国民一人一人が決めないといけないという事。感染症予防するための新しい習慣や環境を整え
つつ、来るべき困難や死を受け入れて暮らす決断を個人が責任もってやる世界。
がっつりテレワークにシフトしてこれを機に人口の地方還流が起きてもいいだろうし、それに合わせて地方もコンパクトシティ化を加速させて新しい事業を励起させるのもありちゃうやろか。
インドなんかはまた人が死にやすい病気が一個増えたなくらいのノリだとかいうけども、それぐらいのイージーさがないと乗り切れないだろう。
「公」が他人事になっているこの国はそういう岐路に立たされている。