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現場放浪記(終)春に逢いましょう

それは突然やって来た。

いや、来ることは分かってはいたが、ついにやって来たというべきか。
ある日を境に案件数が目に見えて減り始め、気が付けばサイトは停止状態となってしまった。新型コロナの猛威が顕在化したのだ。

3月まではまだ順調な受注をこなしていたが、すでに現場では先々への不安が
傭兵たちの肩に積もり始めていた。A契約のランカー達は本営からの情報で現状を把握しているらしく、傭兵ネットワーク上には様々な噂話が流れていた。

「4月からは相当厳しいらしい」

いずれにせよ年度末を越えたところが見極めとなる事は皆感じていた。
そしてそれはあっさりと現実のものとなる。まさに潮が引いたように案件が消え去り、我々掛け持ちのC契約にはほとんど案件が流れてこなくなってしまった。
実際に何が起こっていたかといえば、新型コロナ対策のために密状態が発生するイベント事業が軒並み中止となり、そこが抱えていた人材が行き場を失った。その余剰人員が健装案件の現場へと流れ込み、また少しでも条件が良い現場を求めて他の傭兵管理会社からこちらへコンバートしてくる者たちが現れ始めた。

このような状況は初めてではない、2009年のリーマンショックの時を思い出す。
派遣業に主軸を置いている人員の雇用がまずは確保され、それ以外には僅かなおこぼれしか回ってはこない。そして今回はまさに先の見えない、原因さえ分からない状況だ。リーマンショックの時でさえ何とか社会が回りはじめるのに一年ほどかかった。今回はどれほどの期間が必要になるのか見当もつかない。

俺はあの頃を思い出し、しかし昔とは違う自分の力を試す時という気概が生まれ、不思議とネガティブな気持ちは湧いてこなかった。とはいえ仕事は無いのである。3月まではマスクが無いね困ったねと言っていた呑気さが、4月には全く別物の恐怖となって目の前を覆っている。にわかに現実とは思われないほどの変わりゆく日常と次々更新される見えざる「違和感」と向き合う。

様々な公共の補助や住宅ローンなどの一時停止、生き抜くために打てる手をその場凌ぎと分かりつつも打っていき、未来への借りを造りながら今を食いつぶしていく。まさにタコが自分の足を食いながら腹を満たすがごとく、いつしか痛みはマヒしていき、ただ流れる情報を捌きながら半年後、一年後を占う。

オリンピックの中止が決まった頃、都内某所の造船所跡に現場を得た。久しぶりだった。要件はオリンピック開催時に警備任務にあたる警察官達の詰め所のベット設営。日本全国から派遣されてくる警察官達の寝床だ。しかし、オリンピックは中止になってしまったので、そこをそのままコロナ患者を収容する仮説の隔離所にするのだという。無数に並ぶプレハブの間を解体したベッドを運ぶ。20名を越える招集がかかった大型現場だ。みな久しぶりの現場に勢い込んでおり、またオリンピック関連の案件を取っていたA契約の傭兵たちの間であれこれ情報交換が行われていた。

俺はリーマンショック前に会社を経営していたという親父とバディになってベッドを組み立てつつ、あれこれと四方山話に花を咲かせた。親父は俺より10歳ほど年上で人も抱えてやって来た経験がある分、今の状況にも幾分余裕があるように見えた。

「こんな事になるなんて本当に世の中分からないねぇ」
「ほんとですよ、リーマンの時より酷くなるんじゃないですかねぇ」
「そうだね、出口が見えないよ」
「そういえば話は変わるけど、今日一緒のホンダさんて知ってますか?」
「ああ、あのボランティアで傭兵やってるとか言ってる」
「そう、あれ何のことだか知ってます?」
「いや詳しくは知らないけど」
「なんでもね、あの人は大学の非常勤講師なんだそうです、それであの人遣ってる講座の学生が車で事故を起こしたんだそうで」
「ほう、そりゃ大変だね」
「それでその学生は母子家庭でもう学校も辞めないといけなくなってしまったそうなんですよ」
「ますます逃げ場無しだね」
「でね、彼の同級生とホンダさんが可哀そうだからとお金を彼にあげてるんだそうです」
「ええ!じゃあ今日の日当も・・・」
「そういう事らしいです、別にホンダさんは資産家でもなんでもないそうなんですが、そのやり方もどうかというところはありますが、なんとも奇特な御仁ですよね」

ホンダは見るからに人が好さそうで、誰に対しても丁寧に接し、仕事に対しては誠実に前向きにまじめに取り組む傭兵だった。その立ち居振る舞いは逆に我々の中では異質に思われたが、その現場に出る理由もまた他とは大きく違っていた。

「でもあれだね、こんなご時世にそんな人もいるもんだね」
「ほんとですね、なんだかこっちが恥ずかしくなってくるような」
「いや、人はそれぞれだからね、恥じる事はないけど力はもらえる」
「不思議とそうなんですよ、でもあんな人がこんな現場にいるってのがまた世の中ですねぇ」
「ままならないもんさ、誰もそうなろうなんて思ってもいない人生だよ」

俺たちは作業を終えてプレハブ小屋から解放された、初夏の海風が吹き抜けていく。俺は現場上がりの心地よい疲労感を味わいながら、朽ち果てた造船ドックの海へと続く錆びたレールの上に立って、東京湾の空に吸い込まれていくウミネコの声に耳を傾けていた。

現場放浪記⑦ 氷河の先に

穏やかな現場をこなした後、しかしそんなオイシイ案件がゴロゴロと転がっているわけもなく案件検索にはどうもキナ臭いモノしか上がってこない。とはいえ贅沢ばかりも言ってられないのでその中でも比較的労働強度が低そうなものを選ぶ。要件には「解体現場 ガラ出し、壁紙撤去」とあるが、これはちょっとした賭けになるなと思いながらも俺はエントリーボタンを押した。

半蔵門のホテル改装の現場である。古いベッドを解体し壁紙も剥がして撤去する。ホテルは営業中であり1フロアごとに作業を進めていくようだ。依頼主の50絡みの監督がと訳知り顔したゴミ屋の番頭が現場を仕切る。ベッドの解体と作り付けの家具は解体屋が壊し、俺たちは小カッターで壁紙に切れ目を入れてそこから壁紙を剥がしにかかった。作業自体はそれほど難しくはないが、ベッドの解体によってフロアには埃が立ちこめており、また解体屋が雇っている中国人達が猛烈にニンニク臭くて阿鼻叫喚。辛うじてマスクで呼吸を保ちつつ仕事を続ける。

人員は4人態勢の小隊編成。60そこそこの職長が緩く仕切り、どうやら顔見知りのような二人が世間話しながら作業を進める。俺は一人で手のついていない部屋に入り壁紙を剥いでいた。10時の休憩が終わり次の部屋に取り掛かろうとするとトバミという傭兵が話しかけてきた。「いっしょにやりますか、その方が効率いいし」「はい、クロカワさんのほうはいいんですか?」「ああ、あいつはいいよほっといて」そういってトバミは俺と一緒に作業を始めた。

昼になりオフィス街をぶらつくのも面倒なのでコンビニで飯を軽く済ませ現場に戻るとトバミが先にたまり場で一息ついていた。

「お疲れ様です、昼は済んだんですか?」
「ええもう済みました、ところでトバミさんってひょっとして三重県の人ですか?」

トバミの口調には伊勢地方独特の訛りが見て取れた。俺の両親はあちらの出身なのでそれはすぐに聞き取れる。

「ええ!?なんで分かりました?」
「やっぱりですか」

お互いの出自を話して打ち解けたのか、トバミは急に饒舌になりあれこれと話し始めた。年は自分と変わらないくらいで、若いころからずっとこの業界で傭兵をやってきたのだという。自分はなんだかんだとあちこちで正社員をしてきたので、正直なところそういう生き方もあったんだなと改めて驚きとともに話を聞いていた。とはいえ同じ氷河期世代である。荒れ狂う不況の嵐に翻弄されながら世間へと放り出された俺たちはまた、それぞれに違う道を歩き続けてこの埃にまみれスケルトンになったホテルの一室で邂逅した。自分は人見知りであまり現場では話したりしないんだというトバミはしかし、もう一人の傭兵であるクロカワについても話し始めた。

「あいつはね、サボりのクロっていって有名なんですよ」
「なんですそりゃ?」
「なんですかね、とにかくサボるんですよ、突然動かなくなったり」
「はぁ、そうなんですか」
「でもね、そのサボりのおかげで奇跡が起きた事もあるんですよ」

話はこうである。とにかくあちこちの現場でサボりの常習犯として名を馳せるクロカワとトバミは昨年末に同じ現場に入った。クロはとにかく変わった男で、まず風呂に入らない、入らないから当然臭い、あまりの臭さに仕事を出禁になるか風呂に入るかの二択を迫られしぶしぶ風呂に入るようになったとか、仕事が終わりの時間になるとなぜか客の前で手を組んでじっとしていたりとか、なぜか妙なエセ大阪弁を使っていたりと何かと突っ込みどころの絶えない男だ。そんなクロと一緒に入ったそこはセキュリティが厳しいところでカードキーを持って移動せねばならないような現場だったそうだ。そこで作業を終えて最後の点検をトバミが行っているときうっかりとカードキーを忘れしまい現場と外に出るための通路の間に閉じ込められてしまった。もうすでに作業は終わっているので誰かがドアを開けてくれるはずもなく、完全に孤立してしまったのだった。スマホも外のカバンに置いてきてしまい万事休すかと思ったその時、現場の奥からのそっと髭面のクロが出てきたのである。ようは現場のどこかでサボってる間に作業が終わってしまい、のそりと出てきたところでトバミと鉢合わせたのだ。この時ばかりはクロの事が神の遣いに思えた、奇しくもそれはクリスマスイブの深夜であったそうだ。

「とにかくいい加減で風呂にも入らないから臭いしとんでもないんですよ」
「そりゃきついっすね」
「でもなんか憎めないんですよね」

現場を渡り歩いているといろんな傭兵に出会う。それぞれに個性的であり凄腕のエースもいれば正体不明のベテランもいる。俺たちは社会の底辺をうろつきまわって気楽なその日暮らしをしているが、かつて正社員であった頃の自分を思い返すときふとクロちゃんやトバミのような生き方とどちらが幸福だったのだろうと度々考えてしまう。そこに明確な答えはなく、それぞれの事実が積み重なっているに過ぎないことは分かってはいるが、少なくとも今自分は経済的な豊かさは失ってしまったが幸福ではあるなと思えるのだ。利益を得るために人間の心をドブに突っ込んでその事に気がつかない経営者を何人も見てきた、その下で心も体も壊して倒れていく者、黙って消えていく者。自分はそこから離れつつも人としての繋がりを失わずやってきた。人間が生きようともがき足掻く時、可能性は常に一つではないのだと今棲んでいるこの世界の傭兵たちを見ていると改めて思わされる。

現場を終えて「じゃあまたどこかで!」そういって俺はトバミと別れて半蔵門線に向かう。トバミとクロちゃんは二人してどこかへ歩いていった。就業人口の減少が顕著になり、人材不足が叫ばれているこの時代において、俺たち傭兵はふわふわと流されるまま生きていく。あの凍てつくような氷河期はもう今は昔、それぞれに生き残る術を身に着け、時に何かを捨てて俺たちはまた明日に向かって歩き出すのだった。

現場放浪記⑥ 穏やかな日

新木場での案件依頼が出ていない時は新たな現場の開拓。以前から気になっていた情報があったのでそれにトライしてみる。内容は「基盤取付補助 動作確認 片付けなど」とある事から何かしらの機械メンテナンスだと分かる。重い荷物等を運ぶ案件ではなく、どちらかというと繊細で地味な作業をするのだろうと予測はできるが、蓋を開けてみるまではわからない。

予定の日時に現場に向かう、そこは都内某所の大学図書館の地下書庫。ようは書庫の電動棚のメンテナンスだ、無口な感じの元請社員に率いられて自分含め3人の傭兵が地下書庫へと降りていく。厳重なセキュリティが施されたスチールドアを潜り、天井までびっしりとうず高く積み上げられた本が納められた書棚が整然と立ち並ぶ書庫へと足を踏み入れる。そこはまるで浮世を離れた世界。棚の側板のラベルには棚に収められた本のカテゴリーが記入されており視界がミニマルな情報に埋もれていく。空調の音が耳を塞ぐような感覚を覚えながら黙々と作業をこなす。作業内容は予測を超える非常にイージーなものであり、拍子抜けもいいところだったが体への負担が少なくそれだけで十分価値的だった。しかし唯一、重量的に数百キロありそうな棚がレール上を斜行しているのを調整するときは書棚と押し相撲になりこれがなかなかキツい。

午前中の作業を卒なくこなし昼を大学の食堂で済ます。スギモトとサワダが今日の同僚でありどちらも初対面だが、二人とも人柄がよく控えめで話がしやすい。仕事も丁寧にこなし客対応にも問題なく優秀な人材だ。派遣仕事でたびたびあることだが、なぜこんな人材が派遣仕事なぞしているのだろうと思うことが度々ある。われわれ就職氷河期世代の中には止むに已まれず派遣に留まり生きている者も少なくは無い、強固な新卒神話を守り続ける日本社会において我々は予め失われた世代と言って差し支えはないだろう。むしろ20年近く昔、2000年代初頭あの時代の雰囲気としてはフリーターは新しい生活スタイルであり派遣社員は人材の流動性をもって新時代を築いていくのだくらいのお題目が吹聴されていた。しかし実際の世の中はバブル崩壊の余波が顕在化しまともな就職先もなく、新卒者は希望の職に就くこともできず皆その錦の御旗を手放しそれぞれの道をいった。

ある者は既存のシステムにしがみつき、ある者は勃興し始めたIT関連の技術を独学で身に付け、ある者は気楽なその日暮しで糊口をぬぐった。その成れの果てがいまの派遣現場のボリューム層を占める40代の傭兵たちだ。みな基本的なスキルは高いが社会には何の期待もしていない、大都市圏であれば仕事が尽きることはまず無いので生きていけるし親と同居している独身者も少なくない。自分のように妻帯し子供もいる傭兵も当然いるがそういう輩は大抵何かしら手に職を持っている技能傭兵ともいえる層だ。派遣一本で食っている傭兵の中にはそれこそ浮世離れした流れ者も大勢いる。それらの傭兵たちはみな一様にその目の奥に沈む何かを宿している。それは怒りなのだろうか、諦めなのだろうか、それともいつかと望む希望だろうか。

スギモトとサワダはそういった渇いた目をした傭兵ではなく、極穏やかに過ごしている豊かさを感じさせた。なんだかんだといってこれが東京という街のなせる業なのだろうと感じる。流れ者の傭兵が己の身一つをいかようにもできる可能性がある。若さがあればそこを足がかりにどんな事でもできる気がしてくる。人口というボーナスが垂れ流す恩寵だ。二人はそんな東京の力を上手く取り込み生きている、煩わしい社会と適切に距離を置きその代わりある程度のステイタスを手放して今を生きている。

俺たち三人は大学図書館の清潔で近代的なエントランスに置いてあるソファで茶を飲みながら現場に関する情報交換をした。普段は殺伐として埃だらけで薄暗い建設途中の工事現場に座り込んで休憩したりするのだが、たまにはこういうのも悪くは無い。スギモトは自分の仕事を抱えつつ夜勤もこなしているという、何か理由があるのだろうが詳しくは語ろうとしないのでそこは深追いはしない。サワダは細く引き締まった体をしており、上着がアンダーアーマーだったのでボディビルでもやっているのかと尋ねるとそのとおりだという。最近は山奥の崖などを測量する現場が楽しいのだという、山登りと仕事が両立してありがたいと。今日の現場も肉体的には付加が少なく貴重な書籍を目にすることができるから気分転換にもなるといって白い歯を見せて笑った。

「ところでタケウチさんはどんな現場いってます?」
「最近は新木場の倉庫いってますね」
「ああ、ひょっとして」

二人とも例の倉庫の事を知っていた。どうやら界隈ではちょっと有名なようだ。こういう場合それは悪名の場合が多いと相場は決まっている。

「あの現場はあれですね、好き嫌い分かれるよね」
「ああ、あの人が癌でしょ」
「そうなんだよね、現場としてはそれほどではないけどねぇ」

二人は同意見を述べて当たり障りない所見を言い合っている。予想通りあの横柄な社員が原因で人が定着しないようだ。あの程度はまだましなほうだ、しかし自由で緩い空気を重んじる傭兵たちにとってあの負荷は我慢ならんのだろう。作業負荷も時によっては変動するようだし、外縁からの観測によりあの現場の状況はこれでほぼ把握できたと言ってよい。その後は二人からあちこちの現場の情報を得ることができ次への指針が定まった。静かな書庫に篭り情報を整理しつつ現場は続いていく。

現場放浪記⑤ それぞれの流儀

ササモトさんとの一件から週末を挟んで派遣現場から離れて、
その間に自分個人の現場を回したり仕込んだりと忙しく過ごし、
五日ぶりに新木場の現場に再度入った。

現場ではまたタケタニさんの下に入る。向こうはすっかりこちらの事を忘れているようで、初心者に教える段取りをもう一度繰り返す。俺はそれを黙って聞き入れて、前回と同じように作業を繰り返す。たったの五日前に会った人間の顔も忘れる、毎日違った傭兵がやってきては消えていく。ここはそういう現場だ。

「じゃあとりあえず午前中はこの椅子磨いといてください、
 トラック着たら呼びますから」
「わかりました、雑巾の代えはあそこの棚ですよね」
「え?ああ、そうですけど・・・ああ!こないだ来てましたよね」

雑巾と俺の顔が結びついて記憶を呼び覚ましたようだ。
埃っぽく静まり返る倉庫に一人、安っぽいスチールで出来た折りたたみ椅子を磨き籠車に詰めていく。並べ方が決まっており、それ通りに並べることで最大限積み込むことができる。どんな現場にもノウハウというものが存在するもので、それこそ荷物の上げ下ろしひとつ取っても効率的で安全なやり方というものがある。内装などで使われる石膏ボードなどは一枚の大きさが910×1,820mm程度で重さが12kg程あるが荷揚屋と呼ばれる連中はそれを一度に最低4枚持って階段を昇る。普通に考えると50kg近い重さになるわけだがなにせ平べったく大きく枚数がある、それを狭くて入り組んだ建築途中の現場の中を縫うようにして運び込む。時には一袋20kgのセメント袋3袋の事もある。普通に考えればとてもじゃないがやりきれないが、それをゴリラのようなマッチョが運んでいるかといえばそうとも限らない。体は締まっているはいるが細身の者も少なくない、もちろん基礎的な握力や筋力は必要だが最初の三ヶ月を超えて体が出来上がったら、あとは重心をいかに捉えて重量物を扱うかそのコツを掴むことが肝要なのだ。

そして荷揚屋は一日に数現場こなす事が当たり前で、一現場をさっさと終わらせて次の現場に向かいたい者が多い、必然と一回に持つボードの枚数が増える。超上級者になると6枚程度持つのは当たり前、最後に残った枚数が8枚だろうと10枚だろうと行ってしまう猛者もいるが、そこまでいくと安全が保たれないのでお叱りを受ける事もある。荷揚屋はとにかく脳筋で現場の下支えをする集団ではあるが、同時にプロ意識が高く若衆の格好の修行場となっている。

この倉庫にもスチール製の棚が積み上げてあったので、おそらくあれを整理したりトラックに積み込む作業があるはずだ。俺は椅子を磨きながら心密かにその時を思い担ぎ上げるイメージトレーニングをしていた。そしてトラックがバックで倉庫に入ってくる音が聞こえる。

「すみません、トラックきたんで下に」

俺は雑巾をバケツに投げ入れて階下に向かい、昨日のうちに仕込んでいた籠車を次々にトラックに積み込む。積み込むとはいえトラック後部のリフトゲートに乗せて4~5人で作業を行うので負荷は相当低い。作業強度でいえば荷揚屋の3分の1程度だろうか。そしてうず高く積んであるスチール製の棚を積み込む段になり、俺はその棚に手をかけた。

「ちょっと待て、それはまだやらなくていい」

無愛想で乱暴な物言いをするM社の社員だ。この社員が現場を取り仕切っている男であり、ここ三回ほどの現場入りで観察するにこの男は現場にとっての薬でもあるが毒でもあると思われた。この男の振る舞いは受け流せる者とそうでない者を分けるだろう、物の言い方は乱暴だが間違ってはいない、しかしあまりに相手をねじ伏せる正論であるが故に受け取り手によっては憎しみの感情を呼び覚ます。もしベトナムの戦場にいたら部下に後ろから撃たれるタイプといえばお分かりだろう。

「それは持ち方あるから手を出すな、怪我すんぞ」
「わかりました、あっちの籠車持ってきます」
「わかった、やっとけ」

年の頃は自分よりもまだ若いのだろうが、しかしそれが誰であろうと傭兵に対しては変わらない態度だった。一見して何てことないスチール棚にもその現場の流儀が存在する。乱暴な上官の指示は言葉こそ棘がありぶつけられた物だがその内には新人に怪我をさせない配慮が包まれている。この現場の流れがボチボチと見え始めた。

現場放浪記④ 雨上がりの雲間に

新木場の現場を二度ほどこなしそれなりに業務の流れを掴みつつ、俺はその他の現場も物色し始めた。

一本だけに集中して居座るよりも、そこからの発注が薄くなった場合のことを考えて今はまだ幅広く案件を吟味していくべき段階だ。また俺たち傭兵にとって重要なスキルの一つに案件情報の文上から実際の現場内容を類推するというメソッドがある。例えば「建具搬入 間配り、清掃、他 1F EVあり」このテキストからどんな情報が読み取れるかというもの。現場の建物は某企業の博物館であり、そこから出ている発注ということを考えた時にイメージされる現場内容は何か。案件情報には他に「搬入荷揚、補助等」ともある。これは下手するとガチの荷揚げ屋が請負う非常にキツい石膏ボードなどの搬入がある可能性も考えられる。しかしEVの使用が可能であればそこはまだ憂慮の範囲内ともいえる。建具の搬入間配りということはボードは基本的には無いとも判断できる、しかし顧客がその事実を隠しているパターンもあり油断はできない。戦線復帰間もない俺は案件情報から吸い上げる以外の情報源が無い。これが場数を踏んでいくと同じ傭兵仲間から有益な情報を得ることができるようになってくるがそこまでのネットワークを構築するのはまだ先のことになる。

俺は案件情報から読み取る自分の勘と実際の現場とのギャップがどれくらいあるのかを確かめるべく江戸川橋の現場にエントリーしてみた。朝から冷たい雨が降りしきる一月の半ば。いつもは車で通り過ぎる大曲手前の高架下を急ぎ足で歩いていく人々と共に俺も白い息を吐きながら歩く。現場に向かう途中に電車が遅れてしまい到着予定時間を15分をほど過ぎてしまった。事前に職長に連絡を入れておいたので現場の通用口で落ち合う。「遅れて申し訳ない、よろしくお願いします」「ああ、しょうがないね、じゃいきます」そっけもなく髭面の職長が俺を連れて警備室をスルーしてビルの中に入っていく。「客には事情は話してあるから会社には15分遅れで申告しといて」と事務的に要件を伝えて職長はため息をついた。「今日の現場はどんな感じですか?」「うん、あれだよ、博物館の展示ブースの解体やってるからそのガラ出しやら仮置き整理が中心だね、あとはパーティションの移動もあるかもな。キツいところは昨日までで終わってるから今日はのんびりだよ。あと現場は暖房きいてるから薄着のほうがいい」無愛想な顔の割りにしっかりと情報はくれる。ニッカポッカを履きこなしているところ見るにそれなりに経験を積んだ職長らしい。

職長の言う通り雨が降り寒さが染みる外とは打って変わって中は芽が出るような暖かさだ。現場はすでに動き出しており、高い天井の館内に設えられている展示ブースを解体屋の職人たちが壊しにかかっている。展示ブースとはいえ普通の家屋と同じとは言わないまでもそこそこの頑丈さを持っており、それを解体するとなるとそれなりの大仕事となる。大振りのバールを持った職人が見る見る間に壁を打ち壊し窓枠を剥ぎ取り梁を落としていく。我々傭兵の仕事といえばそうした職人たちが動き回る際の作業補助である。ローリングタワーと呼ばれる可動足場を支えたり移動させたり、職人の指示や作業の進行に合わせて出すぎた真似をしないようにしかし見学している「お客さん」にもならぬよう周囲に気を配る。

壁を粗方解体し終わり、職人たちが躯体を支える大梁を落しにかかる。展示ブースにはもったいないくらいの立派な梁だ。重量もそれなりにあるので職人達の間にも緊張が走る。下手に壊せば即事故に繋がるからだ。「おい!こいつ落すから離れてろ!怪我すんぞ!!」一番年老いた職人衆の親方が下から指示を飛ばしながら周囲を怒鳴りつける。天井上の若い職人が梁にセイバーソーを入れていく、ある程度切れ目を入れたら後は上から蹴り落す。しかしなかなか頑丈な梁が落ちてくれない。「何やってんだ!ちょっと待ってろ」と気の短い親方が軽い身のこなしで天井に登っていく。そしてセイバーソーとバールを駆使してあっという間に梁を落した。現場を管理している制服組は梁が床に叩きつけられる轟音を聞いて飛び上がっていた。親方もちょっとやり過ぎたという感じで首をすくめておどけている。

午前中にはひとしきり解体は終わり、昼休みにあてがわれた休憩所で飯を食う。
「ああ、キツい。ちょっと寝るわ」そういって職長は飯もそこそこに突っ伏して眠ってしまった。作業中も妙な汗をかいていたし、他の傭兵との会話を聞くかぎりどうやら糖尿持ちらしい。しかし、俺の興味はそんなところには無く、今日初めて会ったはずの職長の顔と声になぜか見覚えがある気がするのだ。どこで、いつ会ったのだろうか?俺は飯を食いながら自分の記憶の底をさらってみたがどうも思い出せない。

午後からは解体した廃材を搬出するまでの間に仮置きして整理する作業を行う。解体屋はすでに引き上げたようで後は職長の指示の元に作業を黙々と進める。午前中は体調不良で調子が出なかった職長も昼の午睡で少し回復したようだ。作業を進めながら俺はこの職長が誰なのかを考えていたのだが、3時の休憩に入っている時にその答えが出た。職長と馴染みらしい年老いた傭兵との会話が俺の記憶を呼び覚ました。

「ササモトさん体調はどうかね?」「いやぁダメだね、血糖値もしっちゃかめっちゃかだしなんともならんよ」「そうかね、それじゃ好きなコンサートもいけないねぇ」「いやいやイワタさんコンサートじゃなくてフェスだよ」

フェス。この言葉と職長の顔と声が結びつき俺の記憶を呼び覚ました。もう10年以上も前、俺はとある風俗情報を扱うポータルサイトで集金係とグラビア撮影の仕切り役を兼ねた営業マンをしていた。その時に俺が受け持っていた横浜を拠点とする大手グループのフロントマンの名前が職長と同じササモトだった。リーマンショック時にどこもここも売り上げが落ち、次々と広告を取り下げていく中でササモトさんからも打ち切りの連絡があった。当時の上司も未曾有の経済危機にあっては致し方なしと俺の肩を叩き、状況が落ち着いたら再度アタックするしかないと思いを巡らせていた。その翌日にササモトさんから電話があった。「タケウチさん、うちの掲載店舗の件だけど、なんとか自分が直接管轄してる横浜分は掲載継続するからね。どういう事か分かるよね?引き続きよろしく頼むよ」と。あのリーマンショックの荒波の中で失いかけた売り上げが帰ってきた。驚きと今まで積み上げたササモトさんとの現場を振り返り涙が出るほど嬉しかった思い出。ササモトさんは見た目はケンドーコバヤシ似でフェスが好きだった。ちょっとやそっとでは長期の休みなぞ取ることはできない風俗業界にあってその我を押し通して毎年フジロックに行っていることを誇りにしていると語っていた。間違いない、この職長はあのササモトさんだ。しかし、あの首都圏20店舗以上の風俗店の広告全てを取り仕切り、仕事に趣味に誇りを持って熱く取り組んでいた恩人の面影は今は無く。肥え太り、糖尿を患いながら傭兵家業で糊口をぬぐうその姿に俺は複雑な想いを抱いた。リーマンショックを期に起こった不況の煽りを受けて俺は会社を依願退職し風俗業界から手を引いた。結婚したばかりで次のステップを目指していた時期でもあったがせっかくいただいたチャンスを満足に活かすことができず恩に報いることができなかったことが何より心残りだった。懐かしさより何よりあの時のお礼が言いたい、しかし、今の姿を見るにつけそれは憚られる。

作業は予定時間よりも一時間ほど早く終わった。身支度を整え俺たちは現場の外に出て声を掛け合う、「お疲れ様、縁があればまたどこかで」と。「またどこかで」これが俺たち流れ者が一日を共に過ごした仲間に送る別れ際の言葉。降り止まぬ雨の中に消えていくササモトさんの背中を見送りながら俺はこみ上げる言葉を飲み込んで家路についた。

その日の夜。飯を食い終えてソファで案件情報を物色している時に見慣れない電話番号から電話がかかってきた。

「もしもし、お電話いただいていたようなんですがどなたですか?」

ササモトさんだ。どうやら今日の遅刻連絡の着信履歴を見て折り返してきたようだ。何度か電話を掛けていたので不在着信の赤字を見たのだろう。

「あ、どうもタケウチです。今日はありがとうございました」
「ああ、そうか、どうもお疲れ様でした」
「たぶん今朝の着暦みたんですね」
「そうなんですよ申し訳ない、ではまたどこかで」
「ちょっと待ってください、つかぬ事をお伺いしたいんですが」
「ん?なにか?」
「ササモトさん、10年ほど前に横浜で働いてませんでしたか?」
「え!?それはいったいどういう?」
「いえ、実は自分は昔風俗のポータルサイトの営業マンやってまして、その時に
 お世話になった担当者の方がササモトさんによく似ていたもので」
「ああ、そうなんですか・・・たまに言われるんですよね、誰かに似てるとか
 どうとか。でもそれは自分ではないです」
「あ、そうなんですか、失礼しました」
「いえ、いいんですよ、なんかね、あちこちにいるみたいなんでね」
「そうですか、俺はただ一言、リーマンショックの時に助けられた事を感謝して  ると伝えたかったんですよその人に、すみません変なこといって」
「はっはっはっは、そうですか気にしないで、じゃあまたどこかで」

俺は電話を切ってベランダに出でタバコに火をつけた。
雨はもう止んでいる。
夜空には雲間に月が顔をのぞかせていた。

現場放浪記③ 東京の果て

タオルを頭に巻いた男。案件情報に名前はタケタニとあった。

眠いのかだるいのか、こちらを一切見ることなく倉庫内をあちこちと動き回って整然と並ぶ資材が入った籠車をチェックしている。こちらもまだ様子見の段階だ。下手に手を出せばそこからドンパチの火種が生まれかねない。始業まで5分ほど間があるので周囲を警戒しつつ伺う。

そのうちにずるずると人が集まりだし、最後に見るからに横柄な態度の男が現れた。その男はホワイトボードに手書きの札を貼り付けながらブツブツ何やらつぶやいている。

「ねぇ、タケタニさんその人に2番から5番のメンテやらしといて、籠車の整理
 終わってからでいいから、その後はトラック捌くときだけ声かけて、任す」

非常に早口で次々と指示を飛ばして来る、俺には何のことだかさっぱり理解できない。タケタニはそれを理解しているようで軽くうなづきながら手のひらに指で何かを書いていた。

「じゃあいきましょうか、ついて来て下さい」

先ほどとは別人のような顔と声でタケタニが俺に向き合った。スイッチが入ったのだろうか、ようやくこちらを人間として認識したかのような豹変振りである。別段タケタニのような傭兵が珍しいわけではない、派遣現場は言わば普通に会社勤めができない人間たちが気楽に生きていくための手段である。最低限のマナーとルールを守るだけで、余計な人間関係や責任から開放されたある種のセーフゾーンだ。世間から見ればいわゆる「変わり者」だったりもする。そして報酬は最速で当日手にすることもできるし、健康保険が適用される会社もある。本業を持ちつつ空いた時間を回すことでそれなりの収入を得ることも可能だ。ただしそれは本人のスキルとマネージメント能力次第ではあるが。そういった自由人と己の腕っ節で生きている連中が渾然一体となりつつ、一般的な世間とはまた違うゆるーく生きてる人々のクラスターが構成されているのだ。

むき出しの鉄骨と大波スレート、厚手のテント生地で構成された倉庫内をうろうろしつつ、どこかネズミを思わせるというか、なんとなく霊長類最強女子に似ている感じもするタケタニがテキパキと今日のミッションについて説明してくれた。要はこの倉庫はイベントなどで使う機材をレンタルしている会社の倉庫であり、ここに待機している機材を磨いたり簡単な修理をしたり、イベント会場から返却されてきた機材をチェックしたり倉庫内を整理したりというのが主な作業内容となるのだと。午前中は各イベント会場から返却されてきた機材がなだれ込み、その逆に空いているトラックに前日に用意しておいた機材を積み込んだりしながら合間合間にメンテナンス業務を行う。

タケタニに倉庫内を案内されつつ周囲を観察する。どうやらここには三種の陣営が配置されているようだ。まずは俺が所属する「M」、そしてイベント系に強いと言われている「U」という派遣会社、そしてそもそもこの倉庫を運営している雇い主の会社という構成だ。M陣営は俺たちの様なBC契約のフリーランスとそれを管理するA契約(社員)が常駐しているようだ、初日の今日は余計な事は聞かずに観察することで倉庫内の人間関係や稼動状況を把握することに努める。複数陣営が混在しているということはそこに何らかのパワーバランスが存在し、それぞれが背負っている看板によって階層が存在することも考えられる。迂闊なことはできない。

何より今の目的は傭兵家業のルーティン化である。仕事内容がハードであるかどうか、自分のスキルでどの程度こなせて継続性がもてるかどうかの見極めをつけていかねばならない。自宅からのアクセス並びに通勤時間、交通費に諸経費、仕事の内容による肉体への疲労度、人間関係から受けるストレス強度、様々な観点から現場を評価しいかに自分の望む形に最適化していくか、そのための立ち居振る舞いとベストではなくベターな現場選定が今現在求められている最優先事項である。

東京の果て、潮に紛れて木材とガソリンの匂いが流れてくる倉庫の薄暗がりの中、俺の新たな戦いが幕を開けた。

現場放浪記② 新木場にて

現場に向かうためにいつもより早めに目覚める朝。

お気楽極楽な自営業の特権はすべての時間を自分の好きに使える事にある。
もちろんお客さんの都合に合わせながらもではあるが、
実際にどうしても朝の七時八時から始めなければいけない現場なぞそうは
無いもので、なぜ世の中の大半が定時を設けているかといえばそうせねば集団を
束ねて動かせないからだろう。その理から外れた我々フリーランスは勢い緩くもなるがそれでは仕事はままならず顧客の信用も失ってしまう。世の中はバランスで成り立っているのだ。

まだ明けきらぬ薄暗がりの中、吐く息も白く俺は自転車を駅へと走らせる。
できれば家の近くの現場が望ましかったのだが、すぐに入れる案件が新木場にしかなかった。内容的には「倉庫内整理、機材メンテナンス等」とあった。
俺たち傭兵は大元の派遣会社が発信する案件情報にアクセスし、自分の好みの案件を探し出しエントリーする。そしてまだ席が空いていればその時点でマッチングし契約完了となり指定の日時に指定の場所へと直行する。俺が所属する派遣会社は契約形態を三つに分けており、俺は一番縛りが無い代わりに何の保障も無く紹介案件も限られるC契約を派遣会社と交わしていた。

六時過ぎとはいえすでに込み始めている西部池袋線に乗り込み、有楽町線に乗り入れていく路線の最終駅新木場へ。海辺に近いエリアはいつ行ってもある種の違和感を感じさせる。人が住む場所ではない、狭間とも言えるような何か。これが田舎の海辺などになるとまた違ってみえるのは、都会の海辺は埋立地だからだろうか。新木場に着いてエスカレーターを上がると巨大な木材の梁がオブジェとして飾ってある。なるほどここは江戸の木材を扱う町なのだな。

駅から少し歩いたところに目的地はあった。もう日はすっかり上がっているが未だ早朝の空気は残っている。次の曲がり角を曲がれば現場だ、俺が少し脚を早めて歩き出した時、突然目の前に何かが飛び出してきた。
カート!?マリオカート!?どうやら現場の近くが例の外国人観光客に人気の
アトラクションを提供している基地のようで、堀の深い顔した外国人がドンキで売ってそうな着グルミを着てカートの運転レクチャーを受けている。それを尻目に俺は現場に指定されている倉庫へと向かった。

静まり返る倉庫内には人気もなく照明も点いていない。「おはようございます!どなたかいませんか?」声をかけると奥からタオルを頭に巻いた男が出てきた。「Mの人ですか?」「そうです。よろしくお願いします」「ああ、おねしゃす」
薄暗がりの中で相手の顔はよく見えないが、俺は懐かしい臭いを感じていた。俺たち傭兵は大別して二つのタイプに分かれる。一つの場所に留まり巣を作るかそれとも常に流れていくか。それぞれの事情やキャラによってそれは変わっていくが、ゆえに新顔に対しては大抵初めは距離を取る者が多い。ベテランの職長になるとその辺りも上手く取り回す者もいるが、二度とは会わないかも知れない流れ者に使う気は持ち合わせていない輩がほとんどだ。またそれを好む奴もいればムキになって反発する奴もいる、ようは群れにフラッと寄ってきた野良犬を品定めしている、そんな空気をタオルの男は漂わせていた。



現場放浪記① 戦場へ帰る傭兵

2020年初春。

散々だった2019年の業績により事業資金はすでに底を突いていた。
下半期に賭けた営業は尽く空振り、予てより進めていた案件は遅々として
進まず、歳を越えるための巻き取りはなんとかなったけれどもそれが精一杯。

俺が印刷業界から脱サラし独立開業したのは三年前。
今、最大にして最高の壁にぶち当たりそして僕は途方に暮れていた。
とはいえ極々ミクロな世界の話であり世の中もっと大変な苦労をされている事業主は腐るほどいるわけだが、その極々ミクロな世界の事業主にとっても金額の多寡は別として人の心が感じる苦しみは同じなのである。だからこそ視野をぼかして視点を変えて進んでいく必要がある。

年末年始に掻き集めた金で数年ぶりに子供らを連れて帰省し、俺は決意を新たに生き残りを賭けた戦いを開始した。まずやるべき事はすでに枯渇してしまっている資金にこれ以上手をつけずに食いつなぐ事だ。そのために俺はクローゼットにしまいこんだズタ袋を引っ張り出す。中にはヘルメット、安全靴、アームガードや膝当てなどが入っている、そう現場に入るための基本装備一式だ。もうこれを使う事はないと心に決めて走ってきたこの三年、しかし状況はそれを許してはくれず、己の未熟さと愚かさをもってまたこのズタ袋の口を開くことになった。

現場へ帰る、またあの汗と埃にまみれた戦場へ。

別に働くことが嫌いなわけじゃない、
むしろ現場独特の雰囲気を俺は愛してもいる。
しかし、そこに留まっていては先へ進むことはできない。
安いプライドと意地で新しく作り出す仕事で食っていく事を誓い、
俺は仕事道具をクローゼットに仕舞い込んだ。

最初はある程度順調に進んでいけた、売り上げは徐々に伸びていき利益も出始めた。顧客も増え始め勢いは増していくかと思われた、しかし程なく落とし穴はその口を開けて待ち構えていた。月々で回っていたルーティン案件が突然のカットオフ。メインで回していた看板製作設置以外の工事案件から湧き出る様々なトラブル。二馬力で回す家計の状態変化。まだまだ自走していけない幼い我が子達。
見る見る間に資金は溶けていった。

留めは中国人の施主との工事トラブルによる赤字を引き受けた事によるダメージだった。所詮は工事の素人である自分が賄いきれる現場ではなかった。どうにか新しい方向へと舵を切らねばならない。そのためにまずは一から汗を流してやり直さねばならない。自分の甘さと弱さを叩き直すためにも。

そして俺は長らく眠っていた派遣会社のアカウントにアクセスした。ここでは仮に「M」としておく。業界の人間ならすぐにピンと来るだろう。ここは数ある派遣会社の中でも単価が比較的高く、また管理状況がいい意味にも悪い意味にもゆるい。本人次第できっちり働けもするし副業としても十分利用できるポテンシャルがある。業務管理システムもシンプルな自前のものを用意しており、登録した当初は派遣会社もここまで来たかと感心したものだった。
とはいえUIはダサい。

サラリーマンをしながら土日に運動不足解消と小遣い稼ぎがてら現場に入っていたのはもう5年ほども前になる。独立直後三ヶ月ほどはちょくちょく行っていたが、それ以降は現場を離れていた。自分の案件回すために現場自体に身を置いてはいたが、これからは使う側ではなく使われる側へと再び回る。二度とは戻るまいと誓った傭兵稼業の再開だ、抵抗が無いといえば嘘になるが背に腹は代えられぬ、家族の食い扶持が自分の肩に掛かっているのだ。

日付を入力し業種を選択する。自分はC契約フリーランス枠での雇用となるのでやれる案件はそう多くはないがすぐに仕事はみつかった。俺はいま抱えている手持ちの案件を調整してさっそくエントリーした。そしてカレンダーに浮かぶ星、エントリー確認の証だ。俺はその黒い星を見つめながら、明日にやってくる懐かしき故郷、派遣の戦場へと思いを馳せた。