入学式。
どこだったか、中之島のフェスティバルホールだったか。
ガッチリとポールスミスで揃えたスーツに身を包み向かった。
誰も俺を知る者のない、独りきりで向かう祝いの場所。
これはもう旅だ、新しい場所への旅。
見知らぬ新生活を迎えた学生の群れに俺も紛れて、ろくに話も聞かずにただその時が流れる事を味わっていた。そして式が終わりそそくさと帰ろうとしていたその時、見ず知らずの男が声をかけてきた。
「おい!ピンクやなぁ!」
そう、俺の頭はピンク。それは間違いないが。
「今から飲みに行くから一緒に行こうぜ!」
俺よりも歳が上に見えるおっさんに声をかけられる。しかしそいつも入学生らしい。俺は気後れもしたがビビっているとは思われたくなくて、ただ言葉少なに、
「おう、ええで」
とだけ答えてそいつについていった。
十人ほどの集団に紛れてそのまま飲み会に参加した。もちろんだれも知らない。
その場に集まった奴らはそれぞれバラバラに集まったようで、俺に声をかけてきた奴は後から知ったが堺のほうで族の頭をやってた奴らしい。さすが組織作りが上手い。こうして大学に入って最初の人的交流が始まった。この場に集った奴らとはこの後も着かず離れずすれ違う事になる。20年以上経つ今も。
ピンクの髪とポールスミスのスーツは俺に最初の扉を開いてくれた。それと同時に、きっと俺の本質とは違う姿を周囲に映したのだろう。その始まりともいえる。ハリネズミみたいな赤髪のガリガリ野郎がやけに元気に話しかけてきた。
「おい、おまえおもろいな!なんやその頭!」
お前に言われたくないと思いながら、どこか妙にハマらない感じ。中には異様なオーラ纏った奴もいたが、ここには俺が探している「人」はいない。そう感じながらハレの日を楽しみ遊んだ。
こんなもんなんかな、なんとなく寂しさを感じながら俺は家路に着いた。
そして家に帰ると親父と顔を合わせた、親父は俺の頭を見ても何も言わなかった。季節が変わったようだ。新しい春が始まったのだ。
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ハッピーハードコア⑧
時間は少し遡り。
高校二年の夏休みの事。
おれは退屈していた。
うだるような暑さの中、誰に見せるでもないが散髪に出かけた。
そこは例のピンクに髪を染めた散髪屋。
「おう、今日はどうする?」
「せやなぁ、暇やしモヒカンにでもするかなぁ」
「おう、分かった」
ほんまにモヒカンに。
疑問も質問も何もなくザックリ。
ドキドキしたなぁ。
そして家に帰る。
二階に上がり居間にいる親父と顔を合わす。
「はぁ!?お前なんじゃそれは!!!!!」
親父は大工。
当時はまだ40代で現役バリバリのムキムキの職人である。
昔気質で小僧の時は親方から厳しく仕込まれ、
仕事の所作に些細な粗相があろうものなら金尺で手の甲をしばかれるような時代のゴリゴリのガチガチの職人である。
俺のモヒカン頭を見るなり猛然と突進してきて、
襟首をつかみ上げて壁に叩きつけた。
当時の俺はすでに身長は180cmを越えており親父よりもデカかった。
それがリカちゃん人形のように吹っ飛んだ。
「なにが不満なんじゃわりゃあああああ!!!!」
いや、不満とか一切無いし単にネタなんですが。
とも説明できず猛烈な勢いで涙目土下座して速攻で丸坊主にした想い出。
仕事ばかりで俺ともろくに話すこともなかった当時の親父にしてみれば、
俺がグレたくらいに思ったんだろう。とはいえ小学校の時からいたずらのノリで、それとは知らずに車上荒らしとか賽銭泥棒とかを近所の悪童と一緒にしていた俺を見てきた親父にしてみればついにヤバい所まできてしまったと思ったのだろう。今になって振り返れば分からないでもない話だ。守口門真ブルーズ。
ちなみに俺の実家は美容室でおかんは美容師なので髪型の事では何一つああだこうだいう事は無かった。むしろ仕事の甘さを指摘してくるくらいだ。しかし、頼んでも俺の頭は触ってくれない。理由は「タダで仕事はしたくない」との事。むしろ金遣るから他所に行けと言われる始末である。
そんな経緯があり、俺は親父を警戒してその日は例の尾崎の元に避難することにした。尾崎はすっかり大学生になっており、剣道部の彼女の下宿にしけ込み連日よろしくやっていた。そこに転がり込んでそんな経緯を話、高2の夏休み明けの坊主頭の理由などを話しながら次の日は阿部野橋のポールスミスに出かけた。
阿部野橋のポールスミスは俺と尾崎の腐れ縁である長谷川の贔屓している店で、長谷川は高校生でありながらポールスミスから上客として季節ごとに直接便りが届くくらいの着道楽だった。それを自分のバイト代だけで賄い、長谷川の家に遊びに行くとあいつはポールスミスのド派手なパジャマに着替えて過ごしていたりした。特に裕福ではなくむしろ家計は大変だった母子家庭で、家も古い長屋だったが一つも卑屈なところもなく、不登校児であったが存在感がとにかくデカくて無暗に才能にあふれる男だ。やることなすこと規格外であり、そこに尾崎は惚れ込んでおり足しげく長谷川の元に通っていた。
俺はといえば例によって例の如くなんでか知らんがそんな長谷川とも良いも悪くもなく親交があり、尾崎に誘われるままに長谷川の地元に遊びに行っていた。ようは社交的な尾崎がいろいろな人間とのハブとなっていたんだな。そしてそんな中で俺も自然にポールスミスに通うようになり、大学の入学式のスーツはそこで買う事にしたのだ。
ドピンクになった俺の頭を見て、ジョージハリスン似の当時の阿倍野ポールスミスの店長がチョイスしてくれたのはグレーのスーツ。ゆったりしているが仕立ての良い、袖を通した時の着心地の良さに驚いた事を今でも覚えている。そして合わせる靴はプレーントゥが良いよとアドバイスしてくれたが俺は自分好みの紐付きチャッカーブーツを選んだ。
いよいよデビュー戦は近づいてきていた。
ハッピーハードコア⑦
なんとか入学試験をパスして大阪芸大入門の切符を手にした。
入学式までのわずかな期間に俺は急速に変わりゆく刻を感じていた。
まさか受かるとは思っていなかったのだ。
両親はよかったねというけども相変わらずリアクションは薄い。
うちの両親はそんな感じ。
おとんもおかんも中卒の大工と美容師。
どっちも戦後生まれの貧乏暮らしで高校にも行けなかった。
だからこそ俺と弟には学を付けたいというのが願い。
そんな昭和のバブル発JAPANドリームがリアルに活きていた時代だった。
後に親戚のおばさんから聞いたが、
おかんは電話で俺の事を何考えてるか分からんがろくに勉強もせんのに大学まで行った、あいつは天才だと褒めていたらしい。
親の欲目、自分が行きたかった世界に子供送りこめた親の喜び。
今ならばそれが分かる。
入学式までの小春日和に、
俺は行きつけの散髪屋を訪れた。
「兄ちゃん髪をピンクに染めてくれ」
愛車のCB750を店の前で磨いてる理容師に俺は言った。
「おいおい大丈夫かよ、おまえモヒカンした時におとんにしばかれたやんけ」
「大丈夫、もう大学生になるからな」
「お!受かったんか!せならやるか!」
やんちゃな理容師とあれこれ相談しながらブリーチ。
俺の髪は頑固で硬くて太くて三回ブリーチしても色が抜けきらない。
理容師も意地になって予算越えてもキレイなピンク目指して色を抜く。
そして色を付ける。
5時間かけてなんとか染め上げた。
「これで文句ないやろ。疲れたわぁ」
「おう、これで行ってくるわ」
次の日は衣装合わせ。
阿部野橋に向かうためにおとんにしばれるかもしれない不安を抱えながら、
ピンクに染まった髪をなびかせて菊水通りのプロムナードをチャリンコで駆け抜けて俺は家に帰った。
ハッピーハードコア⑥
1996年初頭。
相変わらずの偽物の浪人生活を過ごし、
相変わらず浪人仲間に心配されながら、
どうにかまずは浪人一年目のインセンティブで推薦受験。
不合格。
一般入試。
もうこれでダメなら終わり。
受けたのは本命の文芸、押さえの建築、ワンチャンの映像。
しかしこの中で一番簡単なのは文芸。建築はもっと偏差値が高い。
まあ、何とかなるだろう。
そんな根拠のない自信というか諦めというか開き直りで突き進んだ。
忘れられない。
当時の受験では建築だけが面接があった。
集団面接で5人づつが面接を受ける。
俺は最後の最後だった。
たぶん200人くらいいただろうか。40組ほどの面接が消化されるそれを待ちながら、ひたすら待ちながら時を過ごす。
そしてついにやってきた俺の番。
制服を着た真面目そうな男子と女子と私服の俺。
5人いない、もう3人しかいない。
前に並ぶ面接官は三人、もう受験生の話を聞き飽きてふんぞり返っている。
「はい、では皆さん志望動機をどうぞ」
いやザックリ!適当!
もう見るからに飽きてるし適当。それは手に取るように分かった。
おそらく現役の男子曰く
「祖父の家の改築を見ていて建築に云々・・」
恐らく現役の女子曰く
「住宅展示場を観に行くのが自分は好きで云々・・・」
面接官はもう鼻でもほじりだす勢いで目も死んでいる。
ヤバい、これはもう俺の話なぞ聞く気もないぞこれ。
最後の最後の一人になった俺。
もうどうにでもなーれが出る。
パニック状態の脳みそから捻くりだされたのは、
図書館で観ていたある写真集の事だった。
「自分が建築で面白いと思ったのはサグラダファミリアです」
その場にいた全員がポカーンとなった。
次の瞬間、椅子に寄りかかっていた面接官の一人がテーブルに肘をついた。
「ほう、サグラダファミリアの何が面白い?」
「はい、ガウディがあれを設計してから80年以上経ち完成には尚100年以上かかるとか言われてますけど、それって面白くないですか?」
「何が面白い!?」
三人いるうちの二人が還ってきた。
「ええ、だって本人はもう死んでるんですよ!?それなのにその設計に基づいてその後も多くの人間を巻き込んでその記録とエネルギーは生き続ける。完成してないのに石工とかそこで働く人間とか巻き込んでいつ完成するか分からないものに向かって突き進んでいくんですよ。物凄い力があると思うんですよ。だからそれを学びたいと思いました。ここで」
嘘八百並べ立てた。
ただただ浪人時代に図書館で得た教養のみを頼りに嘘八百。
三人の面接官は全員が眼を爛々とさせて俺の話を聞いていた。
合格発表。
俺は建築学科に合格した。
デッサンも何も学ばず、ただ嘘八百で。
文芸学科と映像学科は落ちた。
なんでやねん。
こうして俺は晴れて大阪芸術大学の坂を登る許可を得たのだった。
ハッピーハードコア⑤
尾崎の試合の戦績や最近のゲーメストの話をしながらまずは京橋、
そして天王寺、阿部野橋から近鉄へ。
阿部野橋はもう一人の不登校児であるハセコの地元である故にうっすく馴染みもあった。しかし、そこから先は未踏の地。
尾崎も松原以降は馴染みが無いらしく、それでもまあ大阪の南への行きずりには十分な輩。
車窓の景色はどんどんと色褪せていき、
それが田舎へと近づいている事を教えてくれる。
古墳が多く産出されるエリアに進んでいき、
土師ノ里、古市、そして富田林。
たどり着いたそこは空が広いド田舎だった。
大学ってこんなところにあんの?
まずはそこが胸に去来した。
そして人流に乗ってシャトルバスに。
田舎の風景見ながら揺られて10分ほどで降ろされたバス停。
そこに随分な坂があり、それを登り切った瞬間に俺は新しい世界を見る。
坂の上には開けた駐車場があり、
そこには多くの屋台が展開していた。
屋外、外なのに、
酒臭い!!
驚愕した、外なのに酒臭いとかどういうことだ!?
瞬間ここが尋常ではない事を俺たちは察した。
さすがセンスある尾崎は言った。
「これあかんちゃう?」
だよな、そう思う。俺もそう思ったがしかし、高揚した。
そう、これこれ、これこそが俺が求めていたもの。
あの中学同級の上品なお嬢様がお前にはお似合いといった意味が分かった。
つうかあの時にお前にはお似合いと言ったあの娘のセンスと俺の評価とは・・・。
この後、いろいろと回った。
廊下を使ったボーリング、映画上映、バー、スナック、射的、ロカビリーのダンスに燻製チキン。何もかもが祭りで規格外だった。
学園祭ではなく市場だったし路地裏だった。
そんな片隅で地味な四人組がアカペラで歌っていた。
時は1995年。まだアカペラブームは来ていない。
しかし、周りは酒池肉林で騒ぎまくる中で、
その四人はただ静かに、しっかりとした声で歌っていた。
まっくら森を。
俺はここに挑もうと決めた。
もうそれしか道は無いとわかった。
それが1995年11月の話。
ハッピーハードコア④
俺は朝からトキメイていた。
何かわからない、言いようもない高揚。
直感で何かが始まるようなそんな予感。
それを抱えて、尾崎との待ち合わせに久しぶりに母校を訪ねた。
あいつは俺たちが通っていた高校の隣にある大学に通い、
相変わらず剣道部に入って汗を流している。
電話して大阪芸大へのナビを頼むと奴は二つ返事で快諾した。
こういうところは相変わらずのレスポンス。
そして高校卒業以来久しぶりに母校近くにやって来た。
バイトしてたエロい熟女店長がやってた喫茶店や、
糞美味い米屋のから揚げや、
千林に似つかわしくないゴージャスな銭湯や、
今も昔も変わらない淀川、河川敷を眺めてから待ち合わせに向かう。
そういえばこんな話があった。
サッカー部の顧問は俺たちの保健体育の担当だったのだが、
爺さんだがやたらガタイがよく、しかも微妙にプルプルしているいろいろ限界な感じの教員だった。
授業では、「梅毒に気をつけろ、やばいぞ」「若い頃アメリカに行ってマリファナ吸った、道端に棒状に乾燥させて売ってた」「お前ら避妊しろ、性病にも気をつけろ」といった感じで実学に基づいた警句を発していた。まさに教導とはこのことを言うのだろう。
そんなサッカー部の顧問は柔道の達人で、アメリカに行ったのは柔道の試合で人を殺してほとぼり冷めるまで逃げるためだったとか言われていた。その逃げた先で路上で売られている棒状の乾燥マリファナを買った話を生徒に聞かせる尊い教導であらせられるわけだが、そんなサッカー部顧問はいろいろな伝説を残している。
例えば、淀川河川敷にあった我が母校はそれこそ河川敷がサッカー部やラグビー、野球部のグラウンドになっており、そこに砂ぼこりが舞い上がらないように川の水を消防ホースで組み上げてばらまく。そのホースが傷んであちこちから水が漏れてピューピュー噴水になるわけだ。サッカー部奴らがまことしやかに語る柔道家のサッカー部顧問の伝説。真夏の暑い日、サッカー部の奴らは走り疲れ乾ききって河川敷に揺らめく陽炎を眺めながら早く次の休憩が来ないかと待ちわびていた。汗と陽炎の向こうに部員たちを見る事もなく後ろ手でホースを眺めるサッカー部顧問の爺さん。そしておもむろに爺さんはホースをガッと掴み噴水にむしゃぶりつき淀川の水をグビグビと飲みだした。ひとしきり啜って満足したのか口を拭ってニヤリと笑い「こんな美味いのになんで飲まんのか」と言ったそうな。
この手の与太話が山ほどあるがまあそんな事を淀川の揺蕩う流れを見ながら想い出したあとに俺は待ち合わせ場所の大学の正門前に足を向けた。
そして、そこから一時間以上待たされることとなる。
当時はまだ携帯電話もない時代。事前の摺合せがほぼすべて。
ポケベルとかも通じずただ待つしかない。
今日は試合があってそれが終わったら付き合えるからと聞いていた。
にしても試合がズレても一時間はなくないか?いうてる間に一時間半が経った。
これはもう帰って良いやろ、大阪芸大には俺だけでいく?つうかもういかんでもいいか!?とにかく何やっとんねんあいつは!?
そして奴はきた。
案の定の困り顔、そしていう事には。
「ほんますまん!試合が長引いて逃げられんかった!一回生は厳しいねん」
ほうほう、左様で、大学生様は大変でございますねぇ。
俺はとりあえず何の連絡もなく路傍の立て札となった我が身の不遇に苛立ち、
その怒りをぶつけたがそれに対する奴の返しは意外な物だった。
「そんな怒んなよ、こんな時にハセコはこう返して来たぞ」
ハセコとは俺たちの同級生で無類の変人だ。
まあとりあえずハセコがなんて返して来たか聞いてみた。
「あいつは俺が二時間待たせた時があってな、二時間やで、
俺もさすがに真っ青になって急いで駆けつけたんやけどな、
そん時にハセコはなんて言ったと思う?」
「はぁ、なんていったんや」
「あいつ缶コーヒー用意してて『遅かったな、大丈夫か?よく間に合ったな』と
暖かく迎えてくれたんや。ほんまキツかったわ」
「ほんで、それが今日の遅刻に何か関係あるんか?」
「なんにもない。ごめんなさい」
俺たちはそれで和解してボチボチと京阪電車千林駅に向かって歩きだした。
すでに陽は傾き始めている。
ハッピーハードコア③
四条畷は坂が多い。
担任に命じられたミッションをこなすべくやってきた不登校の同窓が住んでいるのはそんな場所だった。
俺たちは不慣れな土地を彷徨っていたが、
学級委員長で剣道部の尾崎はネットもない時代に少し迷いつつもそつなく目当ての住所を突き止めた。
チャイムを押し、初めて森村の母親と対峙した。
短髪で勝気そうな、自分が想像している母親像とは一味違った。
今の自分から見ればああそういう事かと想うような。
多くを聞く事も聞かれる事もなく森村の部屋に通された。
それも何とも違和感があったがおそらく担任から根回しがあったんだろう。
茶の一つも出てこなかったが俺達には気にならなかった。
なにせ俺たちはあまりに子供だったから。
不登校の高校生を学校に立ち還らせるなんて事は考えてない、
ただ、あいつに会いに来ただけ、少なくとも俺は。
昭和の建売丸出しの、ボロいとまでは言わないが流行りの安普請。
確か森村の家は両親ともに教師だとかなんだとか。
稼ぎは悪くなかっただろう。
俺は大工の息子で、ガキの頃には親父の現場で遊んで過ごした。
家が建っていく姿を見て育った俺は今でもやはりパッと見て建物の「姿」が観える。
板敷きの上に薄いカーペットを糊付けした床。
そこに森村は座って待っていた。
「おう、どした」
奴は多くは聴かない。
それが否応なしに緊張感を高めた。
「森さん久しぶりやな、会いにきたで」
さすが委員長口火を切った。
ちなみに委員長も森村も剣道をやっている。
道中聞いたが森村は大会で名が上がるくらいの腕はあるらしい。
委員長も大会で遣りあうくらいには腕のある剣士だった。
でまあその繋がりがあるからこのネゴに選ばれたのだなと理解した。
そらね、俺は剣士同士の意味不明な緊張感を感じて黙っていたわけで。
これが俺の得意能力でもあるアンテナなんだが、これにいつも助けられた。
森村は俺を睨んだ。
「お前も来たんか、どうした」
「どうしたというか、まあ来たよ」
言いようは無い。
何もない。
俺は手に持っていたビニール袋を差し出していった。
「まあ、呑むか」
部屋の真ん中にどっかと座る森村と俺たちは正三角形になった。
森村は決してガタイのいい男ではない。
痩せぎすのカマキリのような顔をした奴だ。
しかし故に何を考えているか分からない昆虫のような男だ。
俺はそこが好きだった。
「森さん、学校にこんか」
委員長は正眼に構えていきなりの一閃である。
俺は正直度肝抜かれた。
え?前置き無し?いきなりいくの?
後はよく覚えてない。
一足一刀の間合いで語り合う二人。
剣士同士の問答が始まる。
なぜ学校に行かねばならないのか、
何の意味があるのか、なんだとかかんだとか。
俺はそれを傍でただ見ていた。
つまり立ち合い人だ。
議論が白熱し森村の拳が強く握られたのを見た俺はそこで言葉を発した。
「まあ分かった!とりあえず今日はこれ買ってきたからいっとこ!」
二人ともそこではたと気がついた。
なに、森村の拳だけが強いわけではない、
委員長が正座しながら薄く腰を挙げているのが見えたからだ。
二人よりも体が大きく二人と話ができる俺が体躯に声を響かせれば、
一時は稼げる、それだけの話。
そして俺たちはまずは一献を傾けながら建築について話し始めた。
そう、俺たちはまだ毛も生え揃わない建築の学び舎に集まった何者か。
しかしここで俺は衝撃を受ける。
委員長はすでに己の中に建築の何たるかを持っていて、
森村はすでに建築ではなく美術を志していた。
二人は建築の中にある美術(アート)とは何かを議論し、
俺はそれを傾聴しながら、何を言っているんだこいつらはと思いながらも、
二人の言葉の端々に自分の理解と感性と知識が及ぶ領域を見て発見に喜んだ。
時に頭に血が上った森村が酒瓶を握るのを制しながら、
それに一歩も引くことのない委員長の胆力に呆れながら、
こんな話だけを覚えている。
階段の話である。
森村は言う、
「俺は階段の蹴上げが1mあろうともそれが階段であれば、
それはアートであり建築として成立する」
委員長曰く、
「階段は人が使ってそれが安全に成立するから階段であってそれは階段ではな
いしアートかもしれんが建築ではない。」
と。
俺はどっちの言い分も分かるしどっちにも賛同できるがそれぞれがたどり着きたい場所が違うのにそんなもん言い合ってどうするんだと呆れていた。
そんなこんなの夜を過ごして、次の朝俺たちは森村の実家を後にした。
俺は帰りに森村が描いた油絵を一枚もらった。
今にしてみればなんとも稚拙で、マグリットの偽物みたいなものだが、
「継続」と名付けられたそれは今も俺の実家に飾られている。
その後、数日して森村は学校に出てくるようになった。
ちなみに森村はその後イギリスのなんとかいう街に留学して食えない作家として今も作品を作り続けている。
なぜこんな話を長々としたかというと。
富田林にあるという大阪芸術大学の学園祭に行くにあたり、
当時優秀だった委員長はあのやさぐれた高校の建築学科から大学にエスカレーターで上がっていった秀才で、今や世界で最初の株式会社とか言われている建築事務所に勤めている。そして俺は河内松原に住んでいる委員長に声を声かけてナビを頼んだ。まあ、貸しはあるから水先案内人を頼んだのだ。
当時未踏だった大阪の南へ、人は、大事だよ。
ハッピーハードコア②
今ではもうよく思い出せない。
浪人している仲間と日々日々過ごす図書館で見た写真集。
アメリカ、フランス、イタリア、そこではないどこか。
わけの分からない理由で作り出されたこれらが好きでしょうがない、もしくは
まあこんなもんじゃないかという情念の塊がべったりとした印刷に刷り上げられた数々。
小説や漫画だけではなくて、大阪の地方都市に潜んでいる選者たちが税金を勝ち取って戦い掴みだした結果のアーカイブに浴す喜び。声なき声の主張に遊びながら大阪芸大という新しい場所を想った。
そこには何があるのだろう?彼女はそこが富田林にあるといった。
富田林。俺の高校の同級生の地元。太子とかいったか?もう一人いたな、たしか族の頭やってるとかいった。言葉の訛りも違っていた。「~でや」という語尾はなかなか衝撃的だった。大阪でありながら東北のような語尾。俺が通った90年代初期当時の大阪工大高建築科は大阪の南の奴らが多かった気がする。富田林、岸和田、松原。そう松原に高校の同級生がいたのを思い出した。あいつには貸しがある。
尾崎は剣道部で学級委員長だった。俺のクラスはとにかく問題児が多く、不登校児も二人ほどいた。俺は生来の人好きで誰彼構わず親しくなるのが時にいい方向にも悪い方向にも転がるタイプで、良い方に転がれば人付き合いの良いグッドマンで、悪い方に転ばればそれは八方美人の嫌な奴。それで苦労することもあれ、良い事もまた同じだけ。俺のクラスの担任は見た目とは裏腹の熱血で、不登校の奴らをなんとか立ち直させるために尾崎に指令を出した。教師が無理強いするのではなく仲間が働きかける事でそこに可能性を見出そうとした。尾崎はオタクで剣道部でもののふで器用な奴だった。俺はどこにも属さない、周囲から見ると変わり者だったらしい(後にそうだったと聞く)。
一人目。
ある日、尾崎が俺のところにきて言った。
「なあ、ちょっとお願いがあるんやけど」
「おぉ、なんや?」
「うん、こんどの土曜にもりさんところに行くんやけど一緒にいかん?」
「森村んところ?なんで?」
「吉森先生から言われたんや、声かけてきてくれって、お前仲いいやん」
「おお。仲いいというか話はするよ」
「頼むわ、俺はもりさん分からんから頼むわ」
「はぁ?分からんのにいくんかよ?何したいん?」
「とにかく行くんや、お前が一緒に行ってくれたらそれでたぶんいける」
「なにそれ?別に行くのはいいけど、なにがしたいん?」
「うん、とにかく会いたい、それだけや」
今思えば教育とはここにあるんだろう。
不登校の高校生を救おうという教員が選んだ方法は、
剣道家の端くれとはぐれ者の二人を送り込む事だった。
そして俺たちは四条畷のはずれに籠った同級生に会うためにちょっとした旅に出た。
ハッピーハードコア①
1976年。
昭和51年4月14日。
俺は寝屋川で生まれた。
あの頃の寝屋川といえばドブ川の匂いが立ち込める古い町で、
その町の神社の参道沿いにあるゴキブリ長屋と親達が自嘲していたボロい長屋に暮らしていた。
両親は共に伊勢志摩出身で、親父は大工でおかんは美容師。
死んだ爺さんは西陣織の彫り師で曲がった指で戦争に行けなかった。
曾爺さんは日本画家だったらしいが詳しくは知らない。
俺が四歳になる頃に守口に引っ越した。両親が家を買ったのだ。
70年代後半のオイルショックを乗り越えて世間はバブルに向かい猛然と進み始めていた。中卒の職人が二人力を合わせれば20代で家が買えた時代だ。
守口は松下と三洋のお膝元として栄え、俺たちもその恩恵に預かっていた。
ガキの頃は忙しい両親が日曜日に疲れ果て飯を作る気力もなくなりいつも焼肉に連れて行ってくれた。守口門真は在日韓国人も多く贔屓にしていたオモニの店で美味い焼肉をたらふく食って育った。その店も今ではもうない。
高校受験に際して、大工だった親父の心ひそかな希望であった建築士になるために、俺は大阪工業大学高等学校建築学科を選び無事合格した。癖の強い同級生たちと様々な新しい文化の衝突を繰り返しながら、地元に帰っては近所の土足禁止のジーパン屋に入り浸って、HIPHOP、ジーンズ、最新の米東海岸のアパレルと映画、様々な音楽にハマる日々を過ごした。
そして高校二年になった俺は気がついた。自分が三年生に進級したら国語の授業がなくなる事を、つまり今手にしている国語の教科書が俺の人生最後の国語の教科書であると。俺は国語の教科書が好きだった。授業では取りあげられない人知れず忘れ去られる運命を背負った様々な物語や詩歌、それらをすべて読み尽くす事が俺の密かな楽しみだった。
そんな中に運命の時が待ち構えていた。夏目漱石のこころ。中学の時に吾輩は猫であるに挫折して以来文学作品が苦手になっていたが、これも最後の出会いかと想い読み始めた。読み始めたのは国語の授業中、その次の社会の授業中も、その次の数学の授業中も構わず夢中になって読み続けた。あの時、俺は確かに自分の手で襖を開け、自分の目で血しぶきが走る壁と天井を見た。その時溢れた感情は幾重にも折り重なる「なぜだ!」という言葉になった。
俺は目が覚めた。自分が今求めなければならないものはこれだとはっきり分かった。生きてきてあんなに興奮したことはなかった。今でも鮮明にその衝撃を思い出すことができる。その後、俺はあらゆる文学作品を読み漁った。もう一度、もう一度あの衝撃を味わいたい、もう一度あの快楽を得たい。その一心で本を読み続けた。まさに文学に勃起していた。そうしているうちに、自分でも書いてみたいと思うようになった。
建築学科の担任に自分は建築士にはならず文学を学びたいと相談した。その時、止められるだろうし何を言われるのだろうかと内心醒めていたが、担任は意外にも俺の背中を押してくれた。安藤忠雄は建築士ではあるが奴の本質はそのプレゼンテーション能力にある。自分のコンセプトを人に伝える力がずば抜けている。そういう意味においてお前がやって来た建築の学びも無駄にはならないだろう。書くという事はより自由だからと。恩師も今は鬼籍に入り、母校は名を変え建築学科も今はもうない。
しかし適当な勉強しかしていない工業科の学生が大学なんぞ受かるはずもなく、
当然の如く浪人となった。同じく浪人になった地元の公立高校組の同級生たちと久しぶりに合流しつつ、緊張感のかけらもないのんびりしたとした浪人暮らしを始めた。毎日図書館に行って友人たちが参考書を積み上げるのと同じように小説や美術書や写真集を読み漁った。友人たちはお前大丈夫かと心配したがまあなるようになるだろうと俺は呑気なものだった。
そんなある日、駅前のツタヤで中学の同級生女子にばったりと再会した。彼女は大学に行っているという、面白い大学だから一度遊びに来たらいい、どんな大学か教えるから一度家に遊びに来いと。それほど仲が良かったわけではないが一つ話を聞いてみようと思い手土産もって彼女の家に遊びに行った。彼女はピアノをやっており大学でもピアノを専攻しているという。大学でピアノ?俺に音楽でもやれというのだろうかと思ったが、話を聞いてみると大阪の富田林に総合芸術大学があるという。そこには建築もあるし面白い人がたくさんいるということを教えてくれた。俺はそれまで大阪芸大の存在を知らなかったが、そんなところがあるなら一度見てみたいと俄然興味が湧いた。その頃すでに俺の中にあった一つの考え、文学を書くのが人間であるならば読むのも人間であり感動するのも人間だ。俺は人間の事を知らなければならない。そのために、大阪芸大という場所に何かがあるかもしれない。確信に似た何かが俺の胸に想起していた。
ハッピーハードコア-プロローグ
2001年1月2日早朝
大阪富田林の山のふもとに立っている古びた学生寮。建物自体は倉庫として登録されていると噂されている老舗の学生寮である幸和寮。その一室に男は眠っている。部屋の壁天井、それだけでなくテーブルも冷蔵庫も電話でさえもみなエメラルドグリーンに塗られた四畳半の部屋。壁には巨大なモーニング娘。とボブ・マーリーのポスターが並んで貼ってあり、部屋の色見も併せて一種異様な空間を形作っている。
狭い部屋の三分の一ほどを占めるベッドの上で男の寝息は白く煙っている。粗末な部屋の壁はコンクリートブロックを積み上げてモルタルで仕上げただけの安普請で真冬の朝に凍り付いていて、故にろくな暖房も持たない宿主の寝息すら白く染め上げるのだ。はめ込み式のクーラーをねじ込んである窓からは朝の光が差し込み、裏山からは鳥のさえずりが聞こえてくる。男はうっすらと覚醒しながら自分の息の白さとエメラルドグリーンの天井を見つめながら、また生きて朝を迎えてしまったのだなとぼんやり考えてもう一度目を閉じた。
肩口に沁みこんでくる寒さを振り払うように布団に包まり瞬きの間に深い眠りへと落ち込んでいこうとしたその時、やにわにけたたましく電話のベルが鳴り響く。男は体を少し飛び上がらせて電話に手を伸ばし、二度寝の淵から脳を無理やり引っ張り上げて目を白黒させながら携帯のディスプレイを見た。男の兄貴分からの電話だった。
「もしもし、どしたん」
「寝てたか?」
「うん、今起きた」
「そうか、あんな、新太郎が死んだで」
寒さと眠りの余韻に痺れた頭の中に思いがけない言葉が刺さる。
男はただ、目の前の現実を掴むこともできずに得体のしれない感覚の中に溺れ始めた。